2018年12月30日日曜日

[6577] 魂

雪掻きしながら、いいことに気づいた。
 来年五月に雅叙園の展示があるので、猫作品に精を出している。ところでとりあえず『猫作家』といえば『もりわじん』と多くの方が知ってくれている。社会的にはこれで飯が食っていけるのでありがたいことだけど、僕には猫以外のいろんな時代があった。どの時代も大切な時空間だ。その時代時代の作品が違うから、それぞれの時代の僕の考えも違う。
 作家というのは自分のオリジナリティを見つけ、その作風で生涯を過ごすのがシンプルだ。会社ではないがナニナニ作家という名刺を手に入れたようなもので他人が安心できる。僕の名刺には『縁起物猫作家』と書いてあるわけだ。これで僕という人間は民芸縁起物が生活の奥まで入り込んでいる日本人に安心して認められる存在となった。
 ところで問題なのは僕は猫作家なので猫以外の前時代についての作品は猫のためにあった時代と考えてしまう。ペリペリをやってからその考えは違うことがわかった。僕には多くの時代があり、それぞれが独立したものとしてあったのだ、と考える方が面白いし己が開かれる事に気づいたのだ。ひとりの人間だからどれも繋がってはいるが、どれかが一番ではないのだ。前思考的には経済を満たした猫時代に長くどっぷり浸かっていたので、他の時代も猫のためにあったように思い込み、猫の中に組み込んでしまっていた。そんなふうに考えてゆけば未来までも猫に組み込みたくなって、猫牢屋の中に未来の僕を入牢させてしまう。この閉じたような思考が誤っていたのだ!
 しかし考えたらこれでは僕は個人史的にバラバラだ。まるで多重人格だ。そこで発見しなければならないのが全ての僕に共通の『三つ子の魂百まで』というような『魂』だ。あらゆる思考には反対の思考があり、どちらかに傾けば、感覚がそれに気づくはずだから、そういう思考を剥ぎ取ってゆくことが魂の発露だと思う。それほど困難なことではない。そのためのペリペリ発見だったと思う。政治や経済なども剥いだペリペリの果てに、全ての他人にも共通の千年万年永遠の『魂』を観ることだろう。

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