2025年4月26日土曜日

[8782] 春の朝

 ●春の朝
 昔『春の朝』という個展をやった。
 時々感じる心地よい感覚がある。これをなんと表現すればいいのか。恍惚とか忘我ではちょっと行き過ぎている。麻薬的も行き過ぎている。ある時、新聞かなんかでコリン・ウィルソンの至高体験『春の朝』という文字を見た。この感覚は『春の朝』が最も適していると思った。『春の朝』は何気ない日常に思わずやってきて優しく包む。例えば毎日の皿洗いをしているある瞬間とか。
 『春の朝』は快楽の感覚ではない。快楽は現実逃避が底辺にある。『ここ』と『快楽の目的』の分断した二つがある。これは目的に向かう欲望という妄想だ。二元だからあっちこっちに揺れる。あっちこっちで言えば主流と反主流がそうだ。巷に溢れるほとんどの情報は敵味方に分かれる。主流と反主流の対立だ。どちらも目的思考だから二元から出ない。
 『春の朝』は快楽ではない。快楽とはまるで反対の『苦労』『忍耐』などの経験が根っこにある。そこからの逃避ではないのだ。「若いときは苦労しなさい」はいい言葉だと思う。無目的、無願、無所得などの言葉が合う。だからこれ以上の段階的至高もなければこれ以下もない。あるなら二元に陥る。目的思考の世間は見逃す。人はいつだってここにいる。
 今朝、庭で朝食していて、
「春の朝を体験したことはあるか?」とSSに尋ねた。
 コゲラが木をつつく音がしている。
「頻繁にあるよ」





0 件のコメント:

コメントを投稿