●ハーバード
ハーバード大学の卒業式でのガーバー学長の言葉
「絶対的な過信は頑迷な無知と表裏一体だ。正しさを過信して安住するのではなく、安住できない状態に安住できるようになれ」
ネット内はフェイクと過信だらけだ。自分自身の内面を見ず、世間の情報に逃避する。もうアルゴリズムに心を占有されネットを見ずには暮らせない。情報にどんどん言葉を足して膨らまして真実だと自分を思い込ます。そしてそこにこそ安住があると過信する。自分で自分を騙して無知を曝け出す。
安住できない状態とは自分のことだ。誰だって安住していない。例え大金持ちだろうと権力者だろうと安住はない。隣の芝生は青く見えるだけだ。だから地獄にホトケの安住できるようになれとつまり悟れと諭している。まるで禅僧だね。歳を見たら私より2歳上、ジョブスと同い年か。この年代のアメリカ人は禅が根底にあるのかも。私は誰の味方でもないが、この人は実に上手いことを言うので感心してしまった。
2025年5月31日土曜日
[8817] ハーバード
2025年5月30日金曜日
[8816] 上と下
●上と下
与えるや奢るをすると
いい感じに混じる
でも慣れるとそれが当たり前になって
与える奪われる上ができ
奪う与えられる下ができる
こうやって心が序列化・身分化・固定化する
元来無常なのだからこれは息苦しい
そこで
与えない奢らない
そして奪わない
これで固定は溶ける
2025年5月29日木曜日
[8815] デュアルライフ
●デュアルライフ
A さんは蔵王と村山の二拠点生活
B さんは山形と東京の二拠点生活
C さんは日本と国外の二拠点生活
D さんは地球と宇宙の二拠点生活
E さんは愛妻と愛人の二拠点生活
僕は芸術と庭いじりの二拠点生活
私は一般生活と坐禅の二拠点生活
坐禅は究極の有と無の二拠点生活
2025年5月28日水曜日
2025年5月27日火曜日
2025年5月26日月曜日
2025年5月25日日曜日
[8811] 此岸と彼岸
展示会場に台を設置した。
さて物事は二つに分かれている。こっち岸とあっち岸。こっち岸だけでは狭苦しい。あっち岸とは何? あの世? 苦など超えた世界? 真実? 平安? 幸福? その知識は本やネットから仕入れられる。でもいくら知識が豊富でもあっち岸には行けない。なぜなら泳ぎの知識をいくら身につけても泳げないのと同じだ。だからこのような人間の心の状態を『此岸・彼岸』という川岸に喩えたのだと思う。さあー、泳ごう。泳ぐとは坐禅をすることだ。
2025年5月24日土曜日
[8810] 子供と大人
●子供と大人
「坐禅してる?」
「ときどき。したいと思った時だけ」
子供だね。
坐禅を子供が嫌いなニンジンと同じ類いと思っている。
子供は子供以外のお母さんお父さん婆ちゃん爺ちゃん兄弟など
好きだの嫌いだのあそこ痛いだのここ痒いだの
動植物があって学校があって友達がいて病院があって地域にいる。
子供はそれら全てに生かされている。
なのに自分中心だ。
だから坐禅まで小さい自分の範疇に入れてしまう。
大人になれよ!
2025年5月23日金曜日
2025年5月22日木曜日
2025年5月21日水曜日
[8807] フラッシュバック
●フラッシュバック
庭のヤマボウシが地味な白い花を咲かせている。これを見ると谷中のギャラリー猫町を思い出し心地よくなる。谷中では毎朝、個展オープン前に二階から目の前に咲き誇るヤマボウシを見ながらコーヒーを飲んでいたのだ。このような何とも言えぬ心地よさを、私はコリン・ウィルソンが名付けた「春の朝」と呼んでいる。以前はフラッシュバックと言っていたのだが、フラッシュバックを調べるとトラウマのようなネガティブなイメージが主だ。植物は年間を通して移り変わりながら成長する。同じ時はない。そして毎年ほぼ同じ時期に花を咲かせる。このリズムが脳に大昔から刻み込まれていて、私たちが自然体であることを思い出させるのだと思う。後天的に表層に張り付いた人工的なストレスが排除されるのだ。植物をしょっちゅう眺めて生活することを勧める。そうすればネガティブは些細なものになり得る。
2025年5月20日火曜日
2025年5月19日月曜日
[8805] 『猫わじん 花てるよ』
●『猫わじん 花てるよ』展
倉庫にこんなのがあった
大きな眠り猫
知らなかった!
クアハウス碁点に飾ろうかしら
で打ち合わせ
タイトル『猫わじん 花てるよ』展
2025年6月21日〜7月21日 11:00~15:00
花クリエイターのてるよさんと二人展です。
2025年5月18日日曜日
2025年5月17日土曜日
[8803] 超ひも
●超ひも
毛並描きが実に面白い。毛並描きはSSが大変上手だ。草間彌生はドットを描くがそれは粒子だ。粒子の奥にあるのが『超ひも理論』のひもだ。毛並は線であってひものようなもの。ひもは二点を繋ぐ。
コーチングやテーチングは優位に浸れる粒子でそのお里は劣等感だ。コーチもテーチもしている方がされていることに気づくことがひもだ。猫作りでは私がコーチしているつもりだったが私こそSSのコーチを受けていたようだ。SSは毛並だけでなく人形制作をしていたので造形に造詣がある。そして猫好きだ。私が毛並と造形と猫を好きなわけではない。SSがそれなのだ。私はSSしているのだ。だから毛並み描きが面白い。