●偽物と本物
カッコつけマンを気色悪く感じるのは本物を知っているからだ。
この社会にオリジナリティはなく真似か借り物、コピー、泥棒、二番煎じ、他人の褌で相撲を取る。遺伝子だってコピーだ。全て本物ではない近似値だ。そこで不安が過ぎる。サトリ三部作が泥棒に盗まれるかもしれない。昔、猫仏を偉いコラージュ作家に真似され、それが本になった。あの時はずいぶん悩まされた。また展示会におじさんが現れ抱っこしている猫の写真を出して「権利を買わないか?」と言う。商標登録しているらしいのだ。ほんと姑息な連中がわんさといる。社会そのものが借り物偽物文化蔓延だから仕方ないが、こんなことを思うのはつまりオレが泥棒だからだ。自分は昔の招き猫を現代に蘇らせたとは聞こえがいいが、ただの悪賢い泥棒だ。
さて考察。自分の作風の底辺には本歌取りがある。本歌取りとは所詮泥棒。しかしこんなバカなことで自分が悩むということはそれだけ自分にはそこを脱するエネルギーがあり、向こう側があることを確信しているからなのだ。悲願は彼岸。ならば向こうへ行けばいいのだ。
さて向こうとはコロナ禍の時、死が過ぎり、アトリエに籠り自問自答した。これまで「これが私だ」と言える作品はあるのか? 答えは「無い」だった。それならそれを導き出そうと発見したのが『わ』の図だ。しかし『わ』の図にしても物だから盗まれる。そこで自らが『わ』の図になればいいと坐禅になった。坐禅は物でも思想でもコピーでもない単なる行為だ。坐っているだけだから寝るや歩くと同じで真似されようが盗まれようがそれは人間の行いの一つに過ぎない。却って広まっていい。だから坐禅は不安が微塵もなく大安心のど真ん中なのだ。サトリ画も出したし、そろそろ『わ』の図の発表する時期が来ているのかもしれない。




0 件のコメント:
コメントを投稿