●ギャラリー
art-space1073
私が作ったダルマのような高木さん
彼が大工したギャラリーの内覧会に
生木だって燃やせる薪ストーブがある
目の前に小さな川があっていい感じだ
●瞑想と坐禅
瞑想と坐禅の違いを考えてみた
瞑想は「私がする」
坐禅は「神仏が私を通してする」
愛に喩えれば
瞑想は「私が愛する」
まぁエゴだから一方的な愛だ
坐禅は「愛の中に私が身も心もどっぷり浸っている」
もう最高〜、ってな感じ
でも浸っているからわからない
地球の上にいるから
地球の自転がわからないのと同じだ
みんな坐禅すればいい
●観音菩薩
SSに絵を見せたら「じじネタかよ」と言われた。
はて? ジジィのネタ? ジジィと寝たいのか? 時事ネタか!
数日前、SSがインスタを見せてくれた。昔千葉に住んでいた時、よく市川動物園に行った。そこの猿山の子猿パンチ君の映像だ。パッとみた瞬間、どうしようも無い世の中を知った。もう切なくて切なくてジジィは涙もろい。私は時事ネタなど描く性格ではない。ではなぜ描いたのか? 絵にして昇華したいのだろう。おかげで春の個展のタイトルが決まった! 『南無観世音菩薩』だ。最近の絵は私流の観音菩薩だったことに気づいた。
●エクスタシー
最近本を読まない。ネットもあまり見ないことにしている。どうも目眩がしてくるのだ。
文字や映像はまず初めに目から入り頭で物語を理解し考察し最後に感心したり感情を揺らす。これらは階段を昇るようなもので段階がある。地盤が文字だから空想だ。宙に浮いているような。目眩するわな。
ところが絵を描くとか粘土いじりとか庭いじりなどは身体と目や頭が瞬間瞬間同時だから確かな手応えや達成感がある。出来栄えの良し悪しはどうあれ、身体の芯が生きているエクスタシーを味わっている気がする。エクスタシーの反対がバラバラだ。エクスタシーの生き物をバラバラにして、その部分部分をもう一度繋げても生きない。文字を繋ぐのも。バラバラは本当の理解でもエクスタシーでもない。近似もしくは喩えや方法だ。
●超えて超えて
迷い悩むのは
他のモノや事や考えなどに巻き込まれ
己の方向を見失う時だ
全てに対して間合いを取ることが大事
人は普通イヤなものには近づかない
嫌いからは間合いを取っている
好きなものからだって間合いを取ること
好きは嫌いの裏側みたいなものだからだ
同じコインなのだ
そのうち間合いが好き嫌いを超える
超えたその方向が己だ
●陰陽太極図
あの子供はアジアン料理は食わない。あっちの子はフルーツを食わない。そっちの子はヌルヌルを食わない。など最近の子らは偏食が多い。私が若い頃は珍しい料理なら一度は食ってみたい好奇心があった。音楽でもアートでもいろんなものに興味があった。
今はイノベーションがガンガン発展していて欲しいものはなんでも作られる。だから逆に進まない方向が必要なんだろう。社会が保守的なのはそのせいかもね。未来の方向は直線ではなく、陰陽太極図のように波だったり円だったりが複雑に絡まっているような。
●甘噛み
ジュニオはチョコとピニャモに飛びかかって噛みつく。寝ている時やうんこしている時は無防備だ。そういう時に襲うのは卑劣卑怯。懲らしめるためにジュニオを捕まえて頭を噛んでやる。小さな悲鳴をあげて、もうしないような顔をする。しかし数秒で忘れて飛びかかる。今日も二度ほどジュニオを噛んでやった。いつの間にかオレが甘噛みを覚えてしまった!
●大ガラス
去年暮れ、サトリを展示してから彼岸の悲願『猫でない』作品を次々制作している。
デュシャンに『大ガラス』というのがある。ポーの「大鴉」に掛けた大きなガラスの作品だ。彼の作品『泉』は多分ゴミ捨て場で拾って持ってきた便器だから、それとはまるで正反対で職人の高技術を多様に注ぎ込んだ金掛けた作品だ。どっちもイタズラ好きな天の邪鬼ぽい。『泉』は便器、『大ガラス』には「‥裸にされた花嫁‥」などのサブタイトルをつけているから同じ下ネタだ。デュシャンは一般的に現代美術の先駆者と言われているから、目の上のタンコブだ。いずれデュシャンを自分の中でクリアーしておかなければと思っていた。
実は30歳の頃、そんなものを作るのに土が必要だからと山形の実家で制作していたが、途中で猫作家になって忙しくなってしまい忘れていたのだ。あの時はペリペリがなかったし、今なら土がある山形に住んでいる。これで完璧にできる。雪が溶けて春になったら庭の土にこれの種を蒔こうと思う。