●素人大工
ドッヒャーーーー、巣が欠けた!
細部を直していて円盤一つ壊してしまった。思った以上に脆く柔らかいのだ。それにしても真っ白で綺麗。ミツバチはこんな素晴らしいものを作っているんだと感心してしまった。
ところで素人大工と言われるブリコラージュについて。寄せ集めやあり合わせの道具や物で修理したり作ったりすることをいう。一人でいろいろ考え、大きさや高さや構造をイメージし、ラフな図面を描き、工作し、作業するのだが、適当なのでときどき間違え、そこで知恵が働き、出直し、また失敗し、と何度も喜びや残念を繰り返し、新しい発見を得てなんとなく出来上がる。このプロセスは過去や未来がなくなり瞬間瞬間を生きている感覚がある。このことでニホンミツバチとの一体感を味わう。ニホンミツバチとの一体感は大自然全てとの一体感で、自分と自分以外の境界が失せる。無我の境地に立って歩いている感覚だ。恋愛と同じだ。だから道具にしても物にしても他人のものは借りない。これは道具や物のあり合わせだけでなく、知識などについても同様だ。自分の中にあるあり合わせの知識で行う。だから人の知識は借りない。他人の優越感などのエゴを介入させない。必要なものはここにある物から自分で探す。その物自体の目的とは違ったものでも構わない。もともと大昔から人間は目の前にある物と個人の持っている僅かな知識だけで自分と世界とのズレを応急処置し生き延びてきた。そこから発見や発明が生じ、世界を塗り変え、安心や安定を手に入れきてきた。だから当然、僕は出来合いの養蜂箱を買うこともなく、出来合いの人の知識を聞くこともない。一人楽しく素人大工をするわけだ。このブリコラージュが創造なのだ。マーケットやネットの中に売っている作られた物ではない。ところで僕は陶芸をやっているけど、陶芸を習ったことはない。絵画も習ったことがない。そのような学校にもいってない。だから先生も師匠も先輩もいない。小説の書き方も、自転車の乗り方も、猫の飼い方も、恋愛も習ったことがない。生きること自体、習ったことがない。全部ブリコラージュなのだ。誰もがみんなブリコラージュしているんだけど、誰かに習い模倣し、プロと比較し、劣等感を持ち、余計な概念が喜びにストッパーをかける。孤高の素人大工には危険も失敗も伴うけど、喜びは多大だ。未決定や未完成が生死の不安を取り除く無時間を引き出すのだ。だから世の中にプロなどいないはず。恋愛にプロがいないのと同じことだ。社会の役割としてのプロはいるだろうが、もう既に素人ほどの可能性はない。習うより慣れろとはよく言われるセリフ、だから何度も反復する。教えてもらうより盗めもよく言われるセリフ、だから本歌取りや盗用をする。とりあえず僕はプロという人を騙す肩書きをブリコラージュしたが、それは目の前の道具の一つに過ぎない。道具が少し増えただけで、あいも変わらず子供の頃から60年間ずっと中途半端な素人大工だ。