●道
雲一つない青空。
しかし冷えている。
雪が凍って硬い。
やっと車の幅になったが
ギリギリだ。
もう少し広げないといけない。
地面まで雪はまだ50センチはある。
これでは車は通れない。
夕方5時寒くなってきたのでヤメ。
13000歩
道半ば
白鳥が渡ってゆく空を見る。
●爽快感と虚無感
今日も雪掻き一時間。車が通れる道にすることにしたのだ。その方があとあと何かと便利だ。
1つ気付いたのだが、雪掻きは苦しいマイナスなイメージがある。これは実際行っていないからあくまでイメージである。そのマイナスを実際に身体でやることでいつの間にかハイになり頭のマイナスイメージが消える。つまりマイナスをこなすことによって、マイナスイメージが解き放たれ、頭がゼロになる。空っぽになるということである。これでマイナスからゼロになるから爽快感を得る。
反対に楽しいことをやるというのはイメージがプラスである。これをこなせばマイナスイメージと同じようにプラスイメージが解き放たれる。結果は同じように頭がゼロ、空っぽになる。これは爽快感ではない。満足感があって、すぐ後にプラスからゼロになることによる虚無感がやってくる。
爽快感を得ようと無理をすると身体を壊し、頭がマイナスになる。反対の虚無感の方は辛いので、それを避けようと欲が度を越す。欲とは足りない感覚だから、頭がマイナスになる。双方ともにマイナスになる。ほどほどにして諦めることが大切なのだろう。
ところで人は一生の中、これら爽快感と虚無感を何度も経験する。するとそのうち大それたマイナスや過度なプラスの行為がなくても、日常は些細なプラスとマイナスの集合体だから、マイナスはゼロへ、プラスはゼロへと解き放たれ、現実のあれこれが至る所でゼロになる。これが幸福感に繋がるように思う。幸福感は現実の中の爽快感ではないし、虚無感から逃避としての快楽でもない。イメージを離れて、リアルで高い次元にあるものだろう。だから日頃からゼロに向かうような経験を多くすることが重要である。
●冬半分春半分
最近は雪掻きしてないせいか
調子が悪い。
身体は鈍るし、
頭も気分の悪いことがよぎる。
そこで道を作ることにした。
とことんやってしまった。
雪掻きハイ。
気分爽快!
至福じゃ!
雪国に生まれたことを
初めて
良かったと心から思った!
今日の天気が
冬半分春半分だからだろうか。
●上位
情報や知識が上位に立つと問題だ。なぜなら情報や知識にその人が飲み込まれてしまう。自分で選んだ知識という檻の中に自分で自分を閉じ込めてしまうからだ。
情報や知識に実体はない。不安で迷っている時に夜中に出る幽霊のようなものだ。この幽霊の意のままになることで思い込んでしまう。「目を覚せ」とはこういうことに繋がる。だからどんな情報も上位に立たせないようにすべきなのだ。どこぞの誰かが言い放った情報にマウントさせないことだ。
それと情報や知識には必ず反対がある。右と左のようなものだ。右は左によって成り立ち、左は右によって成り立っている。それなのに右は左を攻撃し、左は右を攻撃する。一人の人の身体が左右ギクシャクしているようなもので、それでは力いっぱい走れない。転んでしまう。つまり風を切って風に乗って爽快に進めないのだ。エネルギーの無駄遣いだ。
ではなぜに思考が分離して反対の左右になるのか。これは反抗して戦って勝って自己満足するためではない。競争しての発展ということもあるが、それは些細な面だ。真実は左右をそれぞれ上位でなく見ることで、左右ではない未知の広大な領域に跳ぶ勇気と知恵を得させるためだ。人はその一歩手前の左右であいも変わらず溺れる。
●金
資本主義社会は大量生産に大量消費、そして何もかもがお金になってしまった。この星は『地球』ではなく『金球』である。キンタマ、つまり下ネタで覆われてしまったのだ。
地球の時は雨も土も暖かさも冷たさも食べ物もほとんど全てが只で地球が施してくれていた。キンタマになってからは只のものを独占する下衆が現れ、人々はお金がないと何も得られないようになってしまった。ここに貧富の差が出てきた。
不平等を感じた貧側は反抗する。この反抗はお金の分配のこと、もっといっぱいくれというもの。つまり革命とは言ってもお金から気持ちが離れていない。お金の虜になっている富裕層と同じである。同じ方向を向いている。だからそれは反抗ではない。誰もがお金に媚び諂っている。
どうせ反抗するなら反対方向を見るべきである。生産者は生きるに大切ないいものを作るがお金ぶら下げた消費者に売らないくらいのプライドを持ち、奴隷のように働かないことである。そうすれば解決すると思う。
●幸福感
この間の絵日記に「雪掻きで知ったのは、金で買える快楽ではなく、金で買えない幸福感だ」と書いた。この『幸福感』についてもう少し考察してみた。
僕は時々、幸福感に包まれる体験をする。二十代の頃から始まり、どういった時に包まれるのかを考察するようになった。そのうちそれが子供の頃からあったことがわかった。誰もが幸福感に包まれているのだが、現実の忙しなさに忘れているのだろう。呼び戻したいものだと思った。
例えば都会の誰もいない公園のベンチに座って、遠くで車のクラクションの音がすると幸福感に包まれる。肌寒い時に、斜め上から左頬に暖かい日差しが当たると幸福感に包まれる。夕方5時ごろ銭湯にでも行こうかなと思い商店街に出た時に幸福感に包まれる。山形では酒屋さんで夕刻になって、オレンジ色の電球の色が目立ってきて子供達が学校から帰って来るのを見ていると幸福感に包まれる。最近では薪を取りに小屋に入って、薪に触った瞬間に幸福感に包まれる。このようなことが結構頻繁に起こるが予想はできない。
さて幸福感とは何だろう?
今いる社会での幸福とは『食欲、性欲、金欲』などの快楽とつながっている。あと家庭でも職場でも人間関係が潤滑なら幸福である。しかし僕が体験した幸福感はこれら3大欲望や人間関係とは縁がない。幸福感に包まれた時、3大欲望などどうでもいいものになるからである。また円満な人間関係の幸福とは違った感覚だからである。3大欲望や人間関係を超えているのである。昔の人はこれを至福と言ったのだと思う。3大欲望は適当にした方がいい。どうせ人間は欲深いから黙っていても欲からは離れられない。その程度でずいぶん楽しめる。
3大欲望は度を越せば快楽の裏にある苦痛が出てきて本体を悩ます。3大欲望が度を越すとは麻薬のようなもので、麻薬に支配されてしまうようなことなのだ。支配されると言うことは檻の中に入れられるようなものだ。それが苦痛になる。恐怖になる。
快楽と苦痛は前と後ろのようなもの。前・後は切っても切れない関係だ。だから後ろの苦痛を避け前の快楽に向かって欲するようになる。「都会を向かない」と言ったのは都会とは3大欲望の仮の名だからだ。そこを向かないとは、前後で言えば前を向かないことになる。前を向かなければ自ずと後ろも向いてない。この意識の時に幸福感に包まれるように思う。ところで後ろがないせいか、幸福感には苦痛も恐れもない。だから快楽とは異にするものだ。また快楽と違って幸福感に学力も努力もいらない。
それから幸福感に包まれる時は一人である。親や恋人や子供など他人が与えるようなものではない。他人がいても他人も自分も風景に溶け込んでいて居ないのだ。包まれているわけだから、その包みからエゴを剥き出していない状態なのだろう。エゴを剥き出すとは心ここに在らずに、どこかにベクトルが向いていて、包まれておらず、そのベクトルの先にある欲望の結果に支配されているということだ。時間で言えば未来に支配されて、今を生きていないようなもの。だから好きなことをやれとか言うが、それで得られるのは幸福感ではなく快楽だ。「都会を向かない」、つまりここから逃避しないことなのだ。人間の間違いは3大欲望が幸福感を与えるものと思って、3大欲望を満たそうと躍起になる。そこには幸福感はない。もう一度言う。
『幸福感は3大欲望を超えたもの、二の次が3大欲望なのだ』
だれもが味わえるこの幸福感を知って、それを過去や今や至る所から呼び戻し、包まれてくれればいい。包まれていればどんな苦労も問題も大したものではない。なぜなら幸福なのだから。
●ヤマセミ
毎年2月に
必ずやってきていたヤマセミ。
去年は見かけなかった。
ヤマセミの寿命が
7年ぐらいらしいから
命尽きたかなと思って
少し寂しかった。
ところが今年
やってきた!
嬉しいもんですね。
去年は雪がなく暖かったから
来なかったのだろう。
来年も来てね。
●写真とイラスト
写真はくるみの木の左下の枝に
こっち向いている白いやつね。
大きさはハトぐらいあって
頭デカイ2頭身
●生涯学習課
市役所の方がやってきた。もう一昨年になるのか、最上川美術館の改革に先頭切って走り回った。あの時は館長のハバミ行為に苦労した。その時に自分の立場を顧みずにハバミ崩しをしてくれた方だ。話が通じる人なので、いろいろ村発展アイデアが出た。
大事なのは都会を向かないで山や土を見ること。ワシなども若い頃は都会や外国を向いていたが、今頃になってだけど、都会の豊かさは自然破壊が土台だ。いわゆる自殺行為だ。目の前にそんなのとは全く違った豊かさがあることに気付いた。
都会に媚びる必要はない。ここは豊かなのだ。山を向けば、水も川も海も空気もきれいになる。自分が漢方で元気になったので思うのは、漢方になるような草やその他を育てるとか。病院の漢方先生を呼んで、市民教室を開くとか。山菜やキノコなどに詳しい年寄りの知恵を知る若者を育てるなどなど山ほどやることはある。
雪掻きで知ったのは、金で買える快楽ではなく、金で買えない幸福感だ。
●治療
真丸目玉のイゴは去年から毎日下痢。少しふらつきながら歩いてトイレに入った矢先、トイレの外にしてしまうから大変。もう歳だからややボケているのだろう。
これには困って、トイレの位置を変えたり、トイレの周りにトイレシートを置いたりと工夫に工夫を重ねていた。同時に下痢を止めるためにいろいろ試した。人間の下痢止め錠剤を少なくしてしばらく試した、けどダメ。民間療法のセンブリを煎じてスポイトで飲ませるがダメ。杜仲茶で試してもダメ。そしてとうとうたどり着きました!
ゲンショウコです!
漢字では『現の証拠』という字だから「証拠が現われる」というもの。これには期待が大きかった。何しろ日本だけの療法らしい。しかしクソまずいみたいで飲ますのに苦労。でもなんとか飲ませて4日目。下痢が軟便に、そしてやや普通のも出るようになった。不思議なことに下痢が止まると歩き方もしっかりしてきた。トイレもちゃんとできるようになった。ボケではなかったのだ。これには驚いた。
やはりどこかが具合悪いからこそ、身体全体の機能が崩れる。ワシの歯痛や夏の吐き気も、国際中医師曰く「胃を温めること」と指摘した。そこ関係ないだろうと思ったが、スペシャル漢方薬と腹巻をすることにした。スペシャル漢方と言っても難しいものではなく、畑で育つようなものばかりだ。そしたらほぼ全身の不具合が改善されただけでなく、雪掻きなどの疲労も昔ほどではない。朝方の憂鬱もない。
人間も環境もどこかに悪い症状があれば、悪いところを取り除くというピンポイント思考ではダメだと思った。問題はそこではなく、周囲とそことの関係を見つけ出し、総合的な考察による根本的治療が必要なのだ。やはりそのような意味においてもアトリエという畑から取れた新発見の”完全な『わ』”は人間と環境に対する治療に重要だと改めて思った。
●スペイン
いつも行くコーヒー豆屋さんが「スペインバル美味しい」と写真をアップしていた。それって何だろうと気になったので聞いたら、なんと、近所の人がやっている! 試しに頼む。美味い! 料理上手だね。自宅で食えるのがいい。
スペインは僕にとって大きな意識転換になった旅だった。
22歳の時、ヨーロッパを2ヶ月ほど一人旅した。その当時、スペインは乱れていたのだろう。ホテルで銃を突きつけられたり、僕が電車乗った後に駅が爆破されたり、いろいろ事件があった。
スペインで初めて見た絵、ブリューゲルに大感動。この影響で自分は絵描きを目指した気がする。彼の絵には『イカロスの墜落』や『大きな魚は小さな魚を食う』など寓意的表現が多い。
ワシ、寓意が好きみたい。ワシの猫作品も寓意的表現が多いからね。
●肩こり
昨日の雪掻きで
相当疲れたのか、
今日の雪掻きは
8000歩でヘトヘト。
それでもいいアイデアが
降ってきたからいいけど
もう死んだね。
生まれて初めて肩凝ってる。
眼精疲労でもある。
明日は晴れらしいから
温泉でも行こうっと。
●諦め
今日は昼過ぎ
打ち合わせがあった
その前に雪掻き
そして打ち合わせ中も雪は止まず
打ち合わせ後に再び雪掻き
12000歩
脚はふらつき
限界を超えたような
何かを捨てたような
目指す方向を諦めた
そんな感じだ
風呂に入り
窓を開け
止まぬ雪景色を眺める
向こうの雪山から
スーッと『わ』の新考察が入ってきた
おっ!
なるほど!
これがあるから雪掻きはいい。
思い出した。
名声を諦めたときに
猫の道が開かれた。
経済を諦めたときに
完全な『わ』が生まれた。
全ての
新しい世界への幕開けには
諦めが必要なのだと思った。
(ただし真実への探究だけは諦めていない)
●認知症
朝食の準備にはいつもバタフライテーブルを広げて拭く。ところが今朝はテーブルを見たらもう広げてある。SSがやったと思って聞いたら、やってないと言う。ワシがやったと言うのだ。ここで犯人探しをする気はない。もしかしてワシは認知症で、やったことも忘れているのかもしれない。もしかして覚えていないが暴力とかして暴れているかもしれない。それはないらしいからややニコニコ老人なのだろう。
SS「一昨日はディサービスに行ったのよ」と言う。ワシは『もちやかた』に行って、最近分かった『わ』の考察を語ったつもりでいたが、ワシの歴史的発見の『わ』って、妄想! SSが言うには『酒屋源八』も老人の施設らしいのだ。ガーーーン!
●ジャズ
雪掻き6000歩。
風呂入り、そのあと『もちやかた』に行く。ここではおこわを売っている。結構美味い。それを手に入れ、自分が最近勉強したことや新しく知った知識や新発見や考察したことなどを話す。この会話が目的。こういうサロン的空間でのひとときは、二十代のプー太郎時代から変わりない。二十代は画材屋だった。小説『自由自在堂』の舞台になったところだ。今はここ『もちやかた』と『酒屋源八』だ。月に一度はこういう会話を楽しんでいる。
コロナで人と人の接触がない今、話していて思ったのは籠って本を読んだりネット情報を得たりばかりは、心身によろしくない。なぜなら人は情報に左右されやすい、騙されやすい、信じやすい。つまり知識や情報が自分よりも上位に立つ。これが問題だ。それはどんな情報にしろ同じだ。
会話とはお互いの考えを提出できるし、解放できるし、解体できる。真面目な自己主張もそれほど大事なものではない。抑揚・色・リズム・様々なもので彩り、自らで音楽を奏でることが大事だ。フリージャズだね。
今日もいいジャズィな日だった。
写真:吹雪に包まれた椅子。
●地獄
村の防火水槽の雪掻き当番。行くまでの歩道がすごい(写真)。昨日は猛吹雪だったからね。
近所のおばちゃんが「田舎はいいなんてとんでもない、地獄だ」と言っていた。
まあわからんでもない。しかしここが地獄なら、この地球上どこに行っても地獄だ。都市は通勤電車地獄、近隣不審地獄、コロナ禍社会麻痺地獄、道路交通渋滞地獄、死不安老後地獄、追い越せ追いかけラットレース地獄、空気は放射能地獄、海はプラスチックゴミ地獄。食べている魚はマイクロプラスチックのたまり場地獄。老後の南の島は退屈地獄。ついでに温暖化で気候変動、大型台風にハリケーンに洪水地獄、山火事地獄。金金金地獄。先進国の豊かさは発展途上国からの収奪だから、何億人の心を貧困にする。人の不幸を土台に自分が楽しんでも心全体が心地いいわけではない。山の木を伐採すれば海が汚染するのと同じように、どこかを汚染すればその汚染は必ず自分に返ってくる。空気も水も同じものを身体に取り入れていて、皆繋がっているからだ。不安を金で買い、それでも不安はなくなることはなく、NYではドアの鍵を3つ以上はつける。それでも安心して眠れず石油で作った薬に頼る。革命だテロだ陰謀だ、脳に安心が訪れることない脳地獄。
さて、そんな地獄の中でも雪掻きは救われている。誰にも迷惑はかけない。少々の忍耐が必要だが他所への逃避はないので現実への集中ができる。これで数々の迷いは失せる。
今日は快晴、雪掻きハイ。1万歩。大汗の後の心の静寂。空の青さの実に美しいこと。風呂の心地いいこと。お茶の美味しいこと。干し柿の美味いこと。薪ストーブの暖かいこと。イゴがひどい下痢散らばした床は下痢地獄、それはゆるそう。
さあ、深呼吸、春一番が、ワシの心に吹いたぜ!
●子供
”完全な『わ』”について、新しい気づきがあり、原稿を直すことに。
”完全な『わ』”は生まれたばかりだから、言葉を知らない赤ん坊のようなものである。もう既に生活しているこちら側から見たらポコッと生まれ出てきた唯の新しいだけの形である。
しかし赤ん坊をこれまでのこちら側の知識で決め付けてはいけない。この赤ん坊こそ現在の人間社会の誤謬を質す存在なのである。パラダイムシフトとしては決定的なものである。
例えば家族に子供が生まれたからといって、街の人口が一人増えたとかではなく、子供ができたことで、家に安心や幸福や希望や未来が生まれ、家が新しく成長し始めるのである。
このような視点でこの図を考えなければならないし、このような視点こそがこの『わ』の言わんとすることである。
●雪掻き
今日は快晴。雪掻きも屋根から落ちてきた分だけ。
自分が小中学生の頃、雪掻きをやった記憶がない。高校の頃に数度やったぐらい。今より雪も多かったから大変だったはずだ。全部、親がやっていたのだろう。それだけでなく高校の時は雪で自転車が使えないので、車で高校まで送ってもらっていた。なんと! 役にも立たず、やる気のない、内に籠もった僕を! 今頃になって、ありがたいと雪掻きしながら思った。
生きてゆく活動には経済と経済でない部分があって、雪掻きなどは経済でない部分だ。こっちの方が受け身としてはありがたい。なんでも金で買える時代になったからだろう。身の回りの水だって電気だってなんだって、これらは金で解決しているので、誰かがこれらを考え準備し作って整えてくれていることを忘れている。雪掻きにこのような中間の金段階はない。だから直接ありがたいが身に突き刺さる。しかし経済があってもそれに捕われない感覚を忘れないようにしなければと思った。