●散歩
散歩も境界を跨いで通るから
境界や分断を作りたがる思考に
先を越されなければ
終始を消す座禅のようなものだ。
写真:昨日の夕陽・今朝の虹
●終始
草刈り、滝のような汗をかいた。
草刈りが終わった後のビールとか風呂上がりのビールとか、何かが終わった後のビールは美味しい。
ところで座禅の後にビールを飲みたいとは思わない。座禅の後にはなにもない。つまり座禅は物事の終わりなのだろう。前に「座禅があって、それをホグスヨーガがあって、それから日常が始まる」と書いた。これは座禅が物事の始まりであることを意味している。これより座禅は物事の始まりであり終わりであることになる。終始が座禅である。結果、座禅があるだけで始まりも終わりもない。始まりも終わりもなければ生も死もない。座禅は生死の執着を解き放つものである。
●ファイヤー
猫柵はタヌキやテンなど
他所の動物侵入禁止用だけど、
奴らが破った穴からチョコが出てゆく。
やはりチョコのために作ったようなもの。
で今回のファイヤースペースだけど、
穴の前でくつろぐチョコ見ていると
やっぱりチョコのために作らされている。
最近はチョコのために我が人生があるような…
●空っぽ
朝、コップにジュースを注ぐ。
昼、お茶を注ぐ。
夜、ビールを注ぐ。
コップにいろんなものを注ぐが
いつもは空っぽである。
人もコップと同じで
頭に何かを入れたり
ハマったり捕らわれたりする。
でも真は空っぽだ。
空っぽが無色透明のことだ。
●座禅イス
庭を無色透明にしたいのは
自分の内部の無色透明がそうさせるのだと思う。
無色透明こそ座禅だ。
ところで姿勢が悪かったので、
座禅すると背中が痛む。
そこで座禅イスを作った。
背もたれが垂直で
前に少し傾いた
足の短いイスだ。
結構イイッス。
●無色透明
人は群れようとして
お金や考えやノリで人を集う。
そして縄張りを広げる。
戦争だってそうだ。
パーティもその一つである。
人は仲間外れにされないために群れに入る。
その群れを自分だと思い込む。
本当の自己を見失うことになる。
ワシの庭はどんな群れにも属さない。
一昨日の庭パーティで
庭がレイブ色に染まりそうに感じたので
こんなことを思った。
此処は
輪の中心のように
なんもない無色透明なのだ。
山の奥深くの湧き水のようなもの。
●猫柵パーティ
庭の猫柵は崖を残すだけで
平らなところは終了した。
残りの崖は困難なので
梅雨明けにやるそうだが、
クソ暑い真夏がやってくる。
「暑かったらどうするの?」と聞いたら、
「無理しないので秋かな」と言っていた。
今日は夜も過ごしやすい気温であった。
とりあえず終了パーティを催した。
老荘はテント張って庭に泊まった。
●拈華微笑
『友達』を言葉で全面に出す
気色悪さについて考えてみた。
自分の不足を友達というもので埋めてるんだろう。
友達は足りないコマでないし
金や物でもない。
「友達だよ」と要求するものでも
約束するものでもない。
「オマエは友達ではない」
「友達なんかいらない」を
拈華微笑できる者が友達かもな。