●坐禅
今年は一日も欠かさず坐禅三昧だった。
65年生きてきて、初めての経験だ。
坐禅は私が心地いいとか健康になるとか
創造力がつくとかそういったものではない。
そのような陶酔や癒しなどの売り言葉や
お伽話などの妄想から目を覚ますことだ。
●得と徳
早朝4時の坐禅で思う。
『早起きは三文の徳』という諺がある。一般的には「早起きすると少しだが良い事がある」という意味。少し得するとか利益とかがあるというふうな捉え方らしい、が間違っていると思う。僕の経験上では、何かを得るようなことではなく、全く逆で、まずは無くなることだ。例えば日光を覆っているモヤのようなものが少しだけ無くなって、その日一日が少し明るくなる。つまり何かを得る増えるのではなく減る。だが私の何かが減っているわけではない。得が主流になって徳を忘れ、何でもかんでも得することがいい思考は徳が減っている。得の裏には損があるからだ。早起きは三文の得ではなく徳なのだ。徳に損はない。
『徳』とは。この間パーティをうちでやったとき、近所のヨガ夫妻を呼んだ。旦那の大ちゃんは39歳、ビール党でビールをたらふく飲む。大ちゃんは一缶飲み終えると台所に行って缶の中を水で濯ぎ洗い、シンクに逆さまに置く。それから新しい缶ビールを開けるのだ。へぇー、清々しく明るく感じた。日光が差したのだ。こういうのが『徳』だと思う。
●りなちゃん
東京から映像やっているりなちゃんがやってきた。
数年ぶりに会う。
5年前に名古屋での個展の時に撮影してくれた女性だ。
『わ』の図を見せた。
思いっきり感動していた。
明日東京に帰るっていうから、
ワシにわざわざ会いにきてくれたってこと!
なんか嬉しいぜ、りなちゃん。
●否定系
アメリカで道元道場にとうとう出家した知人の女性に、昨日の絵日記の『無分別』を送った。面白い返事が返ってきた。Independent(自立した)もdependent(依存した)の否定系だってさ。実に面白い。IndividualにしろIndependentにしろ、そのものの言語がありそうなのに、否定系として成り立っている。
写真:雪掻きで膝と背中が痛いのでヒハリを貼っている。なんとなく効いている感じがする。
●無分別
個人主義は英語でindividualismという。個人はindividualだ。dividualは「分離した、バラバラだ」という意味で、これにinがつくことで否定になり、「分離できない、バラバラでない」になる。「バラバラでない」とは仏教の『無分別』と言える。仏教では分別が真実ではなく、無分別が真実だ。無分別を分けたら部分になって、それでは偏った考え方になって真実から離れてしまう。
さて、個人=individualには無分別の意味がある。無分別とは悟り、つまり仏陀のことだ。個人主義は仏陀主義、ブッディズムと言ってもいいことになる。ならば個人主義の本質はブッディズムを学ぶことにある。一般的に個人主義はバラバラであるpersonから考えられているのではなかろうか。そこでバラバラのpersonからではなく、本来の意味合いのバラバラではないindividual、無分別の視点から考察して行けば、これまでの個人が、ブッディズムの持つもっと大きな『和』の意味合いの個人と成るだろうと思う。
また個人主義の反対の集団主義や全体主義に対しても、もちろん全体だからバラバラではないindividual、無分別が通用する。個人主義も集団主義も根源には同じ『無分別』があるのだ。重要なのは『無分別』なのだ。これで世界に『和』が出来上がる。
●遊び心
昨今、セルフコンパッションなどという「自分に対する慈悲」というのがアメリカから伝わってきている。「私が安全でありますように」「私が幸せでありますように」「私が健康でありますように」「私の悩みや苦しみがなくなりますように」という瞑想らしい。私私私とウザいほど自己中なものだと思った。しかし考えてみれは雪国でなくても人はいろんな状況で悩み迷いネガティブに陥りやすい。そのような時、自分に対して勇気付けが必要なのだろう。そこはアメリカ、自分中心で個人主義だからこのような瞑想になるのかも。そしてアメリカの影響を受けてしまった現代の日本人にも郷に入れば郷に従えでアメリカ流で伝えるのがいいのかもしれない。
ところで僕の作った猫付きお札には「大幸福・大丈夫・大繁盛・大元気・大金持」などがある。これを買い求めてくれる人は「私が幸せでありますように」のセルフコンパッションで、確かにアメリカ流だ。作っている僕は元気を与えると共に遊び心で作ったもの。だから「大阪弁・大袈裟・犬好き(いぬすき)」などもある。遊び心が国に関係なく結構大切なんじゃないかなと思った。A sense of fun is the key to happy living.
●過去未来今
『大雪』というよりは細かいのが『いっぱいの雪』
どの除雪機にしようかと考えていたとき、除雪機の大きいのを持っている80過ぎのお爺さんに尋ねてみた。「大丈夫だぁ」だった。なんか安心があった。その後、機械のことならなんでも知ってなんでも乗りこなしなんでも直せる30代の若者に聞いてみた。「大きのは止めた方がいい」とお爺さんとはまるで反対の答えだった。
結局『一歩引く』と言う自分の考えで大きいのは止めた。この結果を若者に知らせたら「怪我するのが一番怖いから」と返事が来た。これも安心があった。さすが子供がいる家庭を持つ若者の意見だ。
ところで80過ぎのお爺さんから出てくる「大丈夫」は「怪我なくて大丈夫。怪我しても大丈夫。何があろうと全て大丈夫。死んでも大丈夫」と年の功による生死を達観した言葉に感じた。
お爺さんのが過去の経験、若者のが未来、過去と未来の言葉。両方とも今を生きるに大事な言葉だと思う。来季はこれらを内に持って除雪に励もう。
●一歩引く
雪掻きして膝が痛い。来季は除雪機を買うことに決定。だけど大きいやつと中くらいのやつで迷う。
大きいやつは価格も高い。初めての僕にとって扱いが簡単ではないだろう。大きいやつは僕の希望なのだ。中くらいのやつは少し物足りないと思うぐらいだから、こっちの方が作業していても気持ちに余裕があり現実的だろう。
さてこの『希望』というのが迷いの元であることがわかった。だから中くらいやつにすることにした。ガソリン薪割りだって欲しいものの一段下のを購入した。やはり希望の手前、飯だって腹八分がいい。
そういや招き猫の挙げている手は「一歩引いて」と僕は解釈している。一歩引いたら福が来るのだ。なぜなら『当たり前』という言葉があるけど、例えば宝くじに『当たり』たいのが希望で、その一歩引いたところに『当たり前』がある。『当たり前』は当然で道理に適っている。人は一歩引くことで間違いがないのだ。つまり間違いないから福なのだ。
●しかめっ面
目が覚めたら大雪が積もっていた。
家の周りを雪掻き。
サンシュユとヒメシャラが雪の重みで折れそうなので縄で縛った。
この雪の世界に一人っきりと思い、
崖に立って最上川を見る。
ふん、生き抜いてやると、
しかめっ面したら、活力が湧いてきた。
しかめっ面っていいもんだと思った。