●描かない
この2年近く自画像ばっかり描きまくった。
これらの絵は描かないを描いているから、
妙な感覚が現れる。
絵のわかる他の絵描きがそこのところに感心する。
嬉しいことだ。
とうとう描きたいを描いている。
そして初体験の肖像画に入った。
まだまだ描かない描きたいを描こうと思う。
そこで今日は大きめのパネルを作った。
●描かない
この2年近く自画像ばっかり描きまくった。
これらの絵は描かないを描いているから、
妙な感覚が現れる。
絵のわかる他の絵描きがそこのところに感心する。
嬉しいことだ。
とうとう描きたいを描いている。
そして初体験の肖像画に入った。
まだまだ描かない描きたいを描こうと思う。
そこで今日は大きめのパネルを作った。
●上下前後左右
今日は近所の米粉パン屋『穂たる』で勝手に坐禅坐談。
坐禅は左右に揺れない。右と左が押し合いへし合い争い分断する。前後にも揺れない。前は未来で後ろは過去だ。未来は絵空事で過去は過ぎたことだ。上下にいかない。上は夢で望みで天国、下は僻み妬み地獄だ。頭にのぼったのぼせは臍下に降りる。上下前後左右全てが妄想で真ん中ではない。言葉に乗せられ自分で自分の中心を見失う。坐禅は安定そのもの、その形が世界統一だし、それが創造だ。それだけで苦しみ悲しみを超える。
●坐談会
去年個展したKiwaに出かけ、
勝手に坐禅を広める坐談会をやった。
二人の若者が僕の勧めた坐禅の本を買って
じっくり読んでいるという。
嬉しいね。
でも本に書かれたものは
昔の偉い人のウンコみたいなもので
自分のウンコではない。
やはり今即、
坐って自分で自分のウンコする
が心地いい。
●家族主義
SSは兄といると妹になる。デブで糖尿の兄にご飯のお代わりを勧める。酒は家では飲まないと言っていたので勧めるのをやめようとしたら、少し感情的に欲しがった。このような状況は心の中で家族主義が幅を利かし長男という小さな上下主従関係の中に安住しているからだろう。家族主義は男性中心主義でもある。友達主義・同級生主義なども同じだ。家族主義の家が膨らんで国家になって国家権力主義になる。もちろんこれらの主義に対する反主義が出てくるのは当然だ。家族主義は反主義を家族の中の子供の反抗期のように捉える。ここまでくるともはや親父権威主義だ。妄想の檻の中だ。
昨日『己を習う覚悟のないものはここに来るべきでない』と言った。『習う』と言うのは一般的には書物や他人などからの良き知識などを身につけることだ。『己を習う』と言うのは、他から習う良き知識ではなく、自分には都合の悪い良きことではない知識だ。兄にとっての『己を習う』とは「家族主義に囚われている」と気づくことだ。主義を己の心に据えて、主義というサングラスをして、そのような態度でモノを見ても真実は見えない。人はこの庭を美しく清浄と感じるのに己の中の清浄を見ようとしない。チンケな主義を外さない。
●にいちゃん
SSの兄のこと、気になったので考察した。彼はデブで図体がデカい、それでいて動かないから鬱陶しいし目障り。一宿一飯の恩義とか気配りがない。腰が悪いとかでしょうがないと思っていたが、急に思い出した。腰など関係なく前々からそういうタイプだったわ。忘れていた。
彼はたまたまSSの兄だということで出会っただけ、SSは才あるが、兄もあるわけではない。実際はその辺りの何でもないウダツの上がらないにいちゃんだ。見誤ってしまったね。ようやく分かったわ。まったく!
この家は僕にとっては聖域で、禅寺のような修行の場だ。己を習う覚悟のないものはここに来るべきでない。
格言『来るもの拒まず、去るもの追わず』とは、一般的には「自分に近づいてくる人は受け入れ、自分から去っていく人は追いかけない」だが、ワシはそんな偽善的寛大さは持ってない。去るものは追いはしないが、来るものは友達だろうが親だろうがお客だって、馴れ合いや不躾はやはり不愉快、だから拒む。
でもこの格言の真の意味とは「死はやってきて、生は去ってゆく」だ。「自分はいづれ死ぬのだから、今をしっかり生きよう」ということだ。にいちゃんよ、坐禅でもして、こっちの意味を心身で知り生きよ。いくら年取っても遅いことはない。いつだって生き生きした今は過去にも未来にもなく『今』にしかないのだ。
●ボロボロ
薪棚の屋根でけた。
春に新薪棚をプラダンにしたら劣化してボロボロ。
プラダンはダメだと思っていたが、一部だけ古かったようだ。
そこで全部プラダンにした。
ボロボロといえば、昨日はSSの兄が数年ぶりにやってきた。
僕より一つ年下なのに、もはやボロボロクソ老人。
腰痛で歩きがおぼつかないし何かの病気だし。
椅子に座ったきり全然動かねぇ。
どうせ動かないなら坐禅でもせい!
足が組めないとか言う、形じゃないやる気だよ!
坐禅をするとは一歩踏み出すと言うことだ。
●招き猫祭り瀬戸
「第28回 来る福招き猫まつりin瀬戸」
2023 年 9月 23 日(土)・24 日(日)
『歴代日本招き猫大賞受賞作家作品展 』
パルティせと 4階
〒489-0044 愛知県瀬戸市栄町45
午前10時~午後5時
明日です。
よろしく。
●無人種
伊勢の旅では
東京でも名古屋でも大勢の人を見た。
4年間コロナで籠っていたし、
久しぶりにこんなたくさんの人を見た。
けど、動物園に来たようでけっこう面白かった。
もう欧米人もアジア人も中国人も日本人も
多種多様いるけど、もう人種などなく、みんな変わりない。
ワシにとっては見ていてみんな楽しい人々と風景だ。
●成長過程
全てはいつだって成長過程であって止まるものはない。
昔は取材などで「なんで猫なんですか?」とよく聞かれた。
それは脚光を浴びた点であって結果ではない。
ただ人生の途中経過だ。
結果が出てしまうと成長が終わったように思ってしまう。
あとはその安定をしぶとく維持することしか考えなくなる。
たまたまの思考に囚われてしまう。
だから内部では成長しているエネルギーが不完全燃焼になる。
心の奥深くで流れる清浄を滞らせてはいけない。
何事も死ぬまで成長過程なのだ。
死ぬまで呼吸するのだ。
●猫と仏教
コロナ明けて4年ぶりに伊勢の猫祭りに行ってきた。
この4年の間に新しいお客さんが増えたようで
初めての方々から熱烈に声をかけられた。
嬉しいものです。
ところで祭りを体験していて思った。
30年近く開催してきた招き猫祭りは
温かみや正しさがある初期の仏教の要素を含む。
そしてその後、発見したペリペリが『空』で
そこから最近はムガノガに行き着いた。
それは禅の悟りのことだろう。
いい感じに成長しているように感じる。