●超現代アート
昨日、友達の現代アーティストと久しぶりに語った。ふと思ったのが坐禅は超現代アートだね。
現代アートとは『作らない』や『しない』が底辺にある。心臓が勝手に動いているように呼吸が勝手にしているように『任せる』ってことだ。
坐禅はただ坐るだけで何も『しない』。現代アートの純粋なものだと思う。搬入搬出は身一つで作品や荷物はない。坐禅の形は本歌取りだ。何千年もの歴史があり未だに続いている。誰がやってもそれぞれがオリジナリティになる。不可思議でいつだって新鮮だ。何がいいかわからない。
最も重要なのは坐禅は無我だから自分が『ない』。だから『する』も『しない』も超えている。今時の現代アートは主客があるから任せきってない。だから現代アートぶった作り物が蔓延する。
坐禅すれば立ち上がっても数時間どころか1日全部が坐禅になる。喩えればガソリン入れたら数時間動く車みたいなもの。その後、何をしようが坐禅なので私がしているわけではない。全身全時間全空間、何もしていない。坐禅すれば誰も彼もが超現代アーティストなのだ…思い込まなきゃね。
2024年9月30日月曜日
[8574] 超現代アート
2024年9月29日日曜日
2024年9月28日土曜日
[8572] 先走る
●先走る
秋風が心地よい。
庭でコーヒー飲みながらとてもいい時間を過ごしているのに、頭は先のことを考えたりする。粘土仕事のこととか、夏終わったばかりなのに冬のこととか、老いのこととか、あーだこーだと愁えたり。先があるということは活力になるが今はここで寛いでいる。
思考は後で身体の表面にくっついたもので、ただのオブラートだ。そのオブラートが身体より後で出てきたせいか劣等感があって、身体や自然を分かったかのように先走り語る。概念や物語にしてもっともらしく語る。表面についたオブラートは目立つので優等生みたいに見える。
言葉は生きている今を語れない。今を語れないから生きてない概念の未来未来と先走る。先走らなければ優等生としては身も蓋もなくなる。蓋でなくなればオブラートとしての存在が危ぶまれる。だから本性がバレないように先へ先へと。
2024年9月27日金曜日
2024年9月26日木曜日
[8570] 置き去り
●置き去り
廃れていた招き猫文化を復興継承してしまった。これは『置き去り』を掬い取ったのだろうと思う。
猫祭りその後、ギャラリーは閉店し、元々猫など興味ないし、そんな猫で稼いでもつまらないから、猫など止めて芸道精進しようとした時にファンレターをもらった。
「あなたの作った猫に救われた」とか「自殺を思いとどまった」とか大袈裟な内容だった。
このオレが復興だけでなく人まで助けてしまったわけだ。
そこでそのまま猫を続けて、芸道精進も諦めずにいた。結果いい絵が描けている。ところで未だに良いことする気はない。
2024年9月25日水曜日
2024年9月24日火曜日
[8568] 招き猫
●招き猫
猫を作ったきっかけ。
自分らで作ったアートギャラリーをなんとか経営維持するために売れるものが必要。アジアン雑貨展でもやろうとしたら猫の置物が目に入った。こんなもん自分らで作ればいいやと売れない作家友達を集めて猫をテーマに猫祭りを開催した。私は猫の仏像や猫のおみくじを作った。30数年未だに続いている猫祭りの最初の祭りだ。これがただのグループ展ではなく、本人も知らないところで廃れていた日本の招き猫文化を復興継承してしまったのだ。
招き猫は縁起物、縁起は仏の教えだ。つまり私を仏のところに猫が招いたのだ。猫が私たちに福を招くのではなく、私たちを福である仏のところに猫が招いているのだ。だから招き猫。
2024年9月23日月曜日
2024年9月22日日曜日
2024年9月21日土曜日
2024年9月20日金曜日
[8564] 和
●和
猫作家の小澤さんに「わじんさんの抱っこしているアハーン猫と同時期に抱っこしているサルを作ったアメリカ人がいる」と言われた。指摘しているのはどっちが先かの独創性。作家なら誰でも気にする問題だ。
さて私の作品、社会的に作家デビューとなった作品『猫神様』は仏像と招き猫の和。その後制作したアハーンは雌雄の和、家は雌雄でもあるが猫の種類から東西の和、ペリペリは剥ぐで加えるペタペタとの和、『わ』の図も名前の通り和。これらの和は対極をなすものの和だ。抱っこは和の一部に過ぎない。
さてこの世は表裏・上下・左右・前後・貧富・正否・有無などの対極があり、それらは相互依存関係で出来ている。依存とは片方だけでは存在できない。単体は不在、つまり和でしか存在できないのだ。ここで重要なのが自と他がいて和になるのではなく、和が最初にあって自と他が出てくるのだ。
そして私が行き着いたのが和でしかない坐禅だった。名前が『わじん(和人)』、唯識の『名は体を表す』を超えて『名を体にした』のだ。 *作品は渾沌猫。
2024年9月19日木曜日
[8563] アハーン
●アハーン
写真は『アハーン猫』。『アハーン』はHの時の女性の喘ぎ声だ。この喘ぎ声は人工的に考えた声ではなく、自然に発する音だ。こういう原初的な音って何?
「チベットでは、女性的本性を一切の言葉の根源を『A』で、男性的本性を生きるための最も重要な呼吸の音を『HA』で、合一の象徴を『M』であらわす。 それらは知恵と愛の融合の音『AHAM (アハーン)』となる」
日本語の50音は『あ』から始まり『ん』で終わる。『あ』と『ん』の中間に『は』がある。
坐禅では呼吸が大事だ。雑念や妄想が生じて引っ張られると呼吸が乱れる。そんな時は調息だ。この間私のエッセイに「屁理屈と非理屈」と書いた。そこて閃いた。
自然の呼吸の『は行』、それは人工的な思考、理屈を超える。
生きる呼吸とは『破理屈、非理屈、不理屈、屁理屈、呆理屈』ってね。
2024年9月18日水曜日
[8562] 強欲
●強欲
展示会場にはたくさん人が来る。大人も子供も肥満が多い。ちょっと触れただけで油が出てきそう。将来は爆発するつもりなのかと思ってしまう。
最近、肥満の弟が入院した。SSの肥満の兄も入院。ワクチンのせいだとか言っている。アホや、走れないほど太っているせいだ。コロナとかワクチン以前の自分の問題をよそに転嫁するな。
別に健康管理ができていれば太っても問題ないが、薬に入院では問題だ。餓鬼道にいる餓鬼のように食っても食っても満たされない欲の奴隷は側から見てもよくわかる。大抵の肥満が食ってないと言い訳言うが、ではその身体、昔のうんこでも溜めているのか。それこそ問題だ。美食と健康産業が飼い慣らした檻の中の家畜。動けなくなってからでは遅い。
人は好きなことして生きる。好きなものがやめられない。好きなこと以外はしたくない。こういうのをプロパガンダと言う。いわゆる洗脳だ。洗脳というけど洗ったキレイな脳ではない。良いように騙されているだけだ。この現代家畜脳がまずい。
身体がその脳についてゆけないから薬や入院することになる。脳は薬や病院があるからと自然治癒力や創造力という身体の持っている力を無知無力化する。身体は本来少々の栄養があれば足りる。創造力や幸福感は『少欲知足』というハングリーから生まれる。脳が食いたい食いたいと頑固で強欲なのだ。
『少欲知足』を教えても、脳は「わかる」と答える。その頑固強欲な脳が「わかる」と言っているだけで、身体は喋れないから事実を身体で訴えても洗脳の脳に聞き入れてもらえない。身体は脳によって冤罪に仕立てられ拘束されている。元々醜くもない身体を奴隷にして無惨に太らせ薬漬けしているのはその脳なのだ。
世間には食欲だけでなく様々な強欲がある。いくら湧き水のような清々しくなる話をしてもその油分で固まった強欲の脳には伝わらない。
だからこそ身体が最も美しい形の坐禅を勧めている。ヨガや体操やスポーツなど全ての動きの基本中の基本の形が坐禅だ。誰でもできる簡単な形だ。坐禅でがっちり自己の中心に気づけば、中心に頑固に居座っている強欲脳は静かになって、再び透明な湧き水は流れ始める。
2024年9月17日火曜日
[8561] ハプニング
●ハプニング
榊原温泉で一泊してから山形へ。
ここの湯は日本一ぬるぬる、もう30年通っている。
名古屋でハプニング。
新幹線に乗り込んだが自分の指定席におじさんがいる。
乗り込んでいるはずのSSがいない。
ドアが閉まった。
あれ! なんか間違えた?
なんと一本前の新幹線だった!
名古屋でSSとお別れ。
ぼく一人で家に帰れるかなぁ。
もまえしながら、帰宅できた!
ヤァ、猫ども会いたかったぞーーー