●間合い
イゴが吐いて下痢してしっこを垂れ流す。ヤバイ感じだ。しばらく瞳孔開いて口を開けゼイゼイしている。その間、他の猫はというと我関せず、欠伸して興味なし。同じ仲間が瀕死なのに無慈悲といえば無慈悲だ。
動物は無慈悲なのだろうか?
動植物が生きていられるのは自然が慈悲深いからだと思う。動物はその慈悲深い自然に逆らわず包まれているからこそ無慈悲に見えることでも実は慈悲の範疇だと思う。
それでは人間はといえば、何もかも自然を模倣し奪取しながら、自然から脱しようとしている。ならば自然に変わって無慈悲でない社会を作らねばならない。今のところその慈悲深い社会はAIを巨大にしても遥かに遠い。動物は精巧なロボットではないし、社会も工場や機械ではない。慈悲はAIなどのデジタルとは違うものだ。なぜならデジタルとはポツポツした間合いを埋めたがる端と端の点の集合だ。慈悲とは端と端などない間合いである。私が愛するでも、私が愛されたいでもない、間が愛である。
写真:イゴとチョコ
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