●循環
昨晩は近所の家が火事。
僕の家の前の道を除雪してくれている人の家だ。2階の屋根からも炎が上がっている。水をいくらかけても火は収まらない。オール電化だと言うのに、どこが火元? 口を開けて唖然と見ていた。全焼だった。
最上川の向こう岸にある遊歩道の地面が崩れている。池の水はデッキの反対側に漏れていた。完成はない。完成は終わりだ。完成だと思っているのは錯覚で、全て途中だ。SSの言葉ではないけど、川はずっと流れている。川の流れの行き着く先の海が完成なわけではない。蒸発して雲になり山に降って、上流から流れて目の前を通ってまた海にゆく。これを基準に類推する。肉体は滅び土に還り、また違った生き物として生成することを考えれば、物にも完成はない。ミクロからマクロまでおおよそ思いもよらないところまで循環している。命にも完成はない。つまり死んでも終わらない。輪廻転生は頷けないこともない。因果応報だろう。生まれ変わって報いなければならないという意味で、生きてる時は悪行は反省したほうがいい。死んだら面倒になるから。もともと無我なる覚者なら循環しないように思えるが、人の迷いを救うために生まれ変わるだろうから、やはり我は無くとも循環する。誰も住んで無い家が循環するなら、その内部の部屋の空っぽも循環する。有るものと無いものは一緒になって循環する。家の外も循環する。何もかもが循環していて、その循環の中にいて、そして同時に循環の外にもいる。人は自分の後頭部が見えないように中も外も同時には見えない。片側なら現代の科学で分析できるが、両側を同時に把握するには流動的な全体像を掴む原理が必要だ。その原理が循環だ。稀にそれが見え体感することがある。昨日の「川、ずーっと流れている」がそうだ。希望の稀も禍福も死も愛も循環している。思考は一つのことに固執するから、これが完成だと思い違いをするが、止まるのは真理ではない。すべては循環として丸く収まる。正円では無い丸だ。火事の火が僕が死んでも在る後の生を豊かにするためか、再びアート制作意欲に飛び火した。
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