●へなへな
冬支度の力仕事で腰が頑張っていたのだろう。
今朝、急に力抜けたように
あれよあれよと腰がへなへなになった。
終わって安心したのかもしれない。
プチぎっくり腰だ、こりゃ。
温泉だな。
●変なの
明後日12月1日から雪になる。
この間施工した除雪車用の杭のコンクリートが固まらない。
風邪をひいたようだ。
石膏でも固まらない時は風邪をひいたという。
変なの。
そこで水中でも速攻で固まるコンクリートを買ってきて再び施工。
面白いのがあるもんだ。
水に溶けないし流れない。
だからそれを入れた入れ物を水で洗うのが困難。
変なの。
でも見事に固まった。
これで安心。
あと庭の木々の雪囲い。
庭のストーブやら椅子やらを片付ける。
あとは明日だ。
なんとなく雪が楽しみになってきたぞー
変なの。
●幸福感
薪割り手順。まずは木材をチェンソーで玉切り。まっすぐなものはオノで割る。オノでダメなものは手動薪割り機。手動薪割り機でダメなものは、オノとクサビでいける。しかしオノとクサビは木材を二つ三つやれば、もうヘトヘト、筋肉パンパン、息ゼーゼー。オノとクサビでダメなものは再びチェンソーで小さくカットする。これは面白くない。
さて、とうとうエンジン薪割り機がやってきた! 機械なので危険が伴うがビキビキパカンと引き千切るように割れる。残しておいた割れない木材がすんなり割れた。今季の薪割りは終了。
エンジン薪割り機を使ってみて思うこと。
機械ではオノで割った時の清々しさはない。身体の代わりが機械なので脳と身体が分断している。これからわかることは脳と身体の一体感に、清々しさや解放感、そして幸福感があるのだろう。だから何事もできるだけ身体を使うことだと思った。
昔、僕が本を読んでいると、父親が「頭ばっかりデカくなるとツンのめるぞ」と言っていた。当たっていると思う。頭を支えているのは身体だ。坐禅の姿勢は身体の芯がしっかりしているので頭を支えグラつかない。頭に上った血が下がるのでノボセない。ところが頭でっかちはノボセている。ノボセは頭に血が上っていることで、いわゆる頭が下になって逆立ちしているような状態だ。つまりツンのめっているのだ。身体を使わない頭でっかちのノボセた頭を支えるためには脂肪をたくさん摂り肥満化することになる。実は腸には脳細胞がある。この脳細胞は腸にあるからノボセてない脳細胞だ。かなり冷静だろう。それが油まみれでは無能だ。頭の脳細胞と腸の脳細胞をバランスよく使うことが身体を使うということなのだと思った。身体を使えば脳細胞(頭と腸)はフル回転するのだ。
薪の中心にいかにしてオノの刃を振り下ろすか、頭も身体もその迷いのない一瞬に集中する。そしてパッカーーーンと割れる。この開放感に達成感、坐禅で言えば悟りですね。これが幸福感なのだ。
●ミサキ
旅行記『無我の意図』の最後に出てくるアメリカの道元道場に通う女性。
彼女ミサキからは坐禅についていろいろ刺激をもらった。
そのミサキがこの間、ニューヨーク・Anime NYCというイベントで
『進撃の巨人』の諫山創の同時通訳をした。
今回の彼女のこの仕事、素晴らしいと心から思う。
●冬支度
萩の剪定。
そして道路からの入り口に
除雪車用の目印のポール立ての土台を
鉄を切ったり磨いたりして杭を作り、
それをコンクリートで固める。
これ結構楽しかった。
それから手動の薪割り機が油漏れしたので、
もうワテラ歳だし、体力無いし、、、
エンジンの薪割り機を買うことにした。
●坐禅伝導
わ神社オープン。
雨模様だが、やっている間は降らなかった。
わ神社はおみくじを引いてもらったり
猫の置物を買ってもらったりが本筋だが、
昨今は坐禅伝導人である。
坐禅の凄さはなかなか伝えに難いが
最近はやや勉強しているので
毎日のように気付きがあり
ますますその偉大さがわかってきている。
今日また一人、
坐禅に興味持って座ろうと言う人が増えた。
嬉しい。
●ハゲもなんだから
頭の毛を1週間に一回髭剃りしていた。
しかし冬は寒いしハゲにも飽きた。
そこでハゲもなんだから、
昔のように長髪にすることにした。
と言っても頭頂はほぼ生えない。
だから同じ宗教家だけど、
坊主ではなく前髪のない牧師だ。
後ろから見るとツーブロック的ボーダー。
なぜか左が多いようでワンレグ。
将来はこのまま伸ばしてポニーテール。
頭髪を伸ばしたら若返るはずが
不気味な『ものの毛』になりそうだ。
●目的
自分の目的を考えてみた。人は長いものに巻かれたり、対立したり、追いかけたりでどれも二者択一的でフラフラしているので目的がはっきりしない。
目的とは、年老いても死んでも続くようなものでないといけない。途中で目的叶って、後の人生が気が抜けるようではつまらないからだ。それに毎日目的を達成できるものでないといけない。未来のいつかでは今がつまらないからだ。つまり日々目的を達成しながら、死ぬまでその目的に生き、死んでもその目的が続くようなもの。これでこそ日々生き生きできる目的となる。これでもう死はどうでもよくなる。
ちょいと考えてみた。私は猫と仏像の和を制作してからというもの、何でもかんでも和にしている。住居までも猫との和にした。別にこれが目的でなかったはず。この当時の目的は女子にモテたいとかお金とか名声とかだった。その後、足すと引くの和によるペリペリ画を発見した。表と裏の和である半透明画なども制作した。
こうやって思い出してみると、なぜかいつも底辺に和があったようだ。無我の意図として和が生きる方向を示していたのだと思う。知らず知らず和に支えられ和を目的にして生きていたのだ。
そしてコロナ禍、アトリエに引き篭もり、偶然にどこにもない『わ』の形態を発見した。そして『わ』の行為として坐禅に到った。坐禅は金のあるなしとは無関係だし生き死ににも無関係だ。
そういうことで、私の目的はアートで(坐禅ありの『わ』)を広めることかな。
●珍しい人
東京から演出家の知人が数年ぶりにやってきた。
知的好奇心の強い人なので、『わ』の図を見せた。
「この域まで達した人はいない」と言っていたような。
彼の仕事だけでなく彼の生きる全てに役立てば嬉しいと思う。
それでこそ『わ』になる。
*
彼はチョコが写っている写真のペリペリの楽譜の絵を所蔵している。
●雪囲い
アトリエペリ場の雪囲い。
毎年苦労なので、楽に設置できるように工夫。
今年は板をかけるだけの造作をした。
雪はこのぐらいの隙間でも入ってこないと思う。
今年は実験です。
開放的な美しさがあると思う。
写真は今年と去年と一昨年のもの。