●特別
特別なものはない。
全て特別だから。
●幸福とは
ハスやスイレンでは土を田んぼの土のように粘土っぽい泥にする。そうしなくても土と水があれば花は咲くので今まで一度も泥作りなどしたことがなかった。しかし去年は失敗。これを繰り返さないために、初心に返って基本通りの泥作りからやってみた。
完成。時間は掛かるが、なんと植え付けがスムーズに行く。これまであった問題がない。これってすごい! それに面倒だと思っていた泥作りが実に楽しい!
考えてみたら自分の仕事は土作りと同じような粘土いじりだ。しかしこれほど楽しくはない。粘土いじりは仕事であって、気持ちの多くは他人や社会や経済と結びついている。
ハスの泥作りは混じりっけのない泥いじり。他に何もない。ハスはそのうち芽が出てきて大きな葉になり、周りでメダカが産卵し、蕾が飛び出し伸びて膨らみ、そしてキレイな花が咲く。これらは自分っきりの天地いっぱいの生命の仕事だ。
ふと思った。子供には政治経済なんかどうでもいいから泥遊びをさせるべきだと。ハスまたはスイレンの株、それと鉢と土を与え泥いじりさせることだ。楽しみや人間社会を含んだ自然環境のことを身をもって知るだろう。これが根っこになって真の幸福を知る。これこそ本末転倒してない、『本』の話だ。
さて、僕は次にやる池のスイレンの植え替えがすこぶる楽しみになっている。
●本末転倒
本末転倒と言う言葉がある。
『本』は本来や根本や本質だ。
『末』は瑣末、そして結末や終末とも言える。
人は『本』を忘れて、『末』ばかり気になる。
農業で言えば土壌を台無しにして生産数ばかり気にするようなもの。
絵で言えば好きな絵ではなく売れる絵を気にするようなもの。
特に政治家は『末』を語るのが好きだ。
例えば、うちの党なら将来が安心だ。
長い物に巻かれれば市町村は栄える。
ああすればいい、こうすればいい。
などなど、全て『末』の話だ。
ついでに『本』は何かと問えば、
資本の『本』だと言うのだろう。
資本があればなんでもできる。
それは欲しがっているので
やはり『末』の話だ。
そして末路は戦争だ。
万事がこの始末だ。
●沖縄
大金持ちが慈善のつもりで頭脳集団や先端AIを駆使して、どこかに極楽の街を作ったとする。なんかそう言うアイデアがあるとかないとか小耳に挟んだので、少し考察してみた。
この極寒の雪国で『地獄にホトケ』で極楽になるのだから、作られた似非極楽の街に行っても、どうだろう? 気が引けてつまらなかったり、あまりに何でもあるので面白くなかったり、宣伝映像で見た通りなので感動がなかったりで、多分作り物臭くって心底楽しめないだろうと思う。体裁のよいテーマパークみたいなものだろう。
ずいぶん昔、沖縄に3回旅をした。
1回目は竹富島に1ヶ月ほど住んだ。変な建造物を見つけ中に入ったら時計やカメラなど電気類が壊れた。何だろうと調べたら御嶽(ウタキ・オン)という神社。これに興味が走り、図書館の資料を調べ、島のほぼ全て(30程)の御嶽を発見しスケッチした。これは面白かった。
2回目は街の安ホテルに泊まり、車で沖縄本島を一周した。これもそれなりに楽しかった。
3回目はリゾートホテルに泊まり、ホテル専用の海で泳いだ。これがほんとに心底つまらなかった。退屈な予定調和の檻の中だ。僕は何一つ不自由のないペットって感じだった。そこで僕はリゾートホテルから歩いて敷地外に出た。小さな田舎街があった。その時、大雨が降り帰り道を失った。雨宿りで入った大衆酒場、そこで食べた何でもない定食、そして飲んだビール。これがすこぶる旨かった。生きている感じがした。これがとても楽しい経験だった。
●薪棚柱
床暖がなくなったので、これからは薪生活になる。
写真はテーブルの天板が腐ったので、余った材木で作った。
かなりデタラメだが、上出来だ。
そんな感じで薪棚をもう一つ作ろうと思っている。
雪囲いで使っていた材木を柱にするつもり。
しかしかなり弓形に歪んでいる。
水をぶっかけて重石を載せた。
直るかしら?
●本来の自分
頭がどこぞのグループに向いているときは、
本来の自分を見失っている。
頭はグループの一員だと思っているが、
グループにとっては言う事に逆らわなければ
あなたでなくても他の誰でもいい。
右倣えではなく、
どこかの誰かに飼い慣らされた自分ではなく、
本来の自分を取り戻すことだ。
●わずんWazun
『わ』の図の名前を『わずん』にすることにした。この図は、2020年に絵の制作過程で偶然発見した図だ。この図が坐禅と似ているので坐禅をするようになり、道元禅に興味が湧き人生が面白くなっている。この図は空海の曼荼羅のようなものなのだろうと思う。
そこで『わ』の図、『わず』に坐禅の最後の『ん』をくっ付けて『わずん』とした。僕の名前が『わじん』なので、山形弁になって『わずん』みたいな、ガハハハ。
「わずんさーん」
「はーい」
●マチス
一時期自分のタッチに満足できず、ある時偶然に偶然性が高いペリペリが生まれた。個性を消すことが剥ぐという行為である。ちなみにマチスの晩年80過ぎて発見した切り絵は筆のタッチがないので筆遣いの個性が消される。マチスのハサミの切り絵と線とナイフを使うペリペリの線は近い感覚だ。年取ると自分を消す方向に引っ張られるというか導かれるのだろうと思う。写真はマチスの絵をペリペリしたものだ。
●あだ名
昔、会った人の名前が思い出せない。それも長い間一緒に仕事をした人の名前だ。ところがあまり付き合いがなかったあだ名で呼んでいた人のことは顔も性格も覚えている。あだ名はその人物の顔や性格を反映しているためだろう。反対に本名はその人物と一致しない記号のようなもので、仕事上あだ名で呼ぶわけもいかず、さん付けで呼んでいたから忘れてしまったのだと思う。
名前を思い出そうとコーヒー飲みながら一服。春になったせいか水槽の藻がなくなって水がキレイだ。水槽のメダカをずーっと見ていた。やはり思い出さない。
●般若心経
『般若心経』という260文字ほどの短いお経がある。これは人類史上最上の智慧だ。坊さんの解釈を読んだり聞いたりすればおおよその内容はわかる。理解すれば感動する。しかし覚えても忘れる。身に付かない。これは前にも書いたが本物は生きているので手に入らないのだ。呼吸みたいなもので、一回いっぱい吸ったから、もう呼吸をしなくていいわけではない。「これでよし」はないのだ。吸ったり吐いたりを繰り返すことで生きる。
また人は何でも二つに分けてしまう二元論の思考でモノを見る。社会も生活も時空までもバラバラにする。だから二元論でないものは受け入れ難い。やはり分けてしまうから分からない。
諦めず何度も何度もいろんな坊さんの解釈を読んだり聞いたりして探求し理解し覚える。坐禅をする。この呼吸を繰り返しているうちに、本来の自分が虚妄の二元論の世界でない真理を呼吸し生きていることに気づき、分からない真髄が身に付く。それでもやはり「これでよし」はないからあいも変わらず呼吸する坐禅する。
●仕事
出家したアメリカの知人の老師は膨大な量の道元禅師の教説本を分析解説する。日本語でさえ難解極まりない言葉や詩を英語にまでする。それには他の宗教書や哲学書・科学書もたくさん読まなければならない。これだけでもすごいことなのに、『不立文字』(真理は概念で規定し得るものではない。悟りの道は、文字・言語によっては伝えられるものではない)という言葉があるように実践が最重要だ。その実践が坐禅だ。禅僧の坐禅は毎日やるだけでなく、月に一度接心というのがある。これは昼夜を問わず5日間、一言も喋らずぶっ続け坐禅をするのだ。陶酔するような瞑想ではなく、ほんとぶっ飛んでいる。!
まぁ、こういう人のおかげで僕らにとって興味深い諸々の問題が解けてくる。すごい仕事だなぁとつくづく感心する。尊敬するしかない。
せめてもの自分の仕事を精進しなければと改めて思った。ガンバンベー!