●湯治
薪割りに疲れたので
風呂に何度も入ったら
湯あたり風呂疲れして気持ち悪い。
湯治の気分だったのだが、
なんでもほどほどだな。
あー、吐きそう、、
●薪割り
秋晴れ。
気温が高い。
今日から薪割り開始。
薪割り機のエンジン、
この赤いのスイッチ?
どうやってかけるんだっけ?
チョークってなんだっけ?
1時間バリバリ
意外とガソリン食わない。
今日は薪棚に、
こんな感じ。
●秘密
早朝坐禅の秘密を明かそう!
前日に「明日の朝、坐禅ができる」と思うだけで下記の思いなどどうでもよくなり楽しくなる。
「退屈だなぁ」「愛欲に溺れたいなぁ」「一発当てたいなぁ」「いいアイデアないかなぁ」
「寂しいなぁ」「死にたいなぁ」「私はダメだなぁ」「生きてゆく自信ないなぁ」
「腹立つなぁ」「奴らが悪いんだ」「ぶっ壊したいなぁ」「こんな世の中なくなっちまえばいい」
坐禅はこれら陰や陽に傾きすぎた心を姿勢と同じように真ん中に戻す働きがある。
つまり坐ることで陰陽太極が実践され心は中道に目覚める。
いついかなる時も明日の朝坐禅ができることを思えば、All is well.なのだ。
●楽しい
「考え事をしている」と答える大多数は
何も「考えていない」と思う。
「考えないこと」は大事だ。
でも社会では「考えないこと」が
悪いことのような風潮がある。
それに人は「考えないこと」が容易くない。
実は「考えない」中に全てがある。
幼稚園児を見ればわかることだ。
ヤツらなんも考えてないから
未来、何にでも成る可能性があるし
過去に縛られてないし、
今、楽しいの真っ只中にいる。
考えないを考えるのが坐禅だ。
●融通無碍
融通無碍:何ものにもとらわれずに自由であること。
「何もの」とは何か?
最近聞いた言葉では『スピリチュアル』『金』『未来』
『社会』『多様性』『ジェンダー』『大義』『日本』など。
これらの単語に『主義』をつければわかるよ。
どれもこれも偉そうで不自由になるだろう。
「とらわれる」とは言葉が『主義』になって、
これらを自分の中心に頑固に置いちゃうことだ。
中心には何も置かないこと。
これでスッキリ自由。
●置いてけぼり
現実は思考の作ったバーチャル、
文化文明はその中にバーチャルを作り、
そのうちその中にまたバーチャルと
仮想空間はどんどん進む。
片やこの現実を作ったのが神様で、
その神様を作った元神様がいて、
そのまたそれを作った元々神様と
神様はどんどん続く。
ついでに宇宙も
この宇宙以外に別の宇宙があり
多元宇宙になってとどんどん増える。
真実は現実からも神様からも宇宙からも
全てから置いてけぼり。
真実はそんな遠くにあるわけがない。
●闇
昨日、インドネシア料理のワルン夫妻が作品希望で家に来た。ワルンは結構刺激的な料理でスペースも寛げてたまにヒーヒーしに行く。
旦那さんが僕の楽譜の絵を見て口ずさんだ。この絵は6年ほど前のものでペリペリ画法全盛期の頃の絵。これまで数多くの人が見ている。音楽関係の人も見ているがこれほど明確に口ずさめた人は一人もいなかった。すごい! 面白い人だ。
彼はムガノガを気に入っている。感想は「闇を持っている」と言っていた。妙な感想だ。
今朝、座禅しながら『闇』に集中してみた。
世の中はほぼ全て偽善めいている。正しげな意見、良さげな言葉など真実とは無関係なプロパガンダ売り文句ばかりの偽善社会だ。昨日の選挙のイカサマなどはわかりやすい偽善だ。自分の嘘を誤魔化すためにまた嘘を吐くから、この社会はますます偽善で覆われ、『善』は闇に葬られる。ワルンの彼はその闇に漂う『善』を見たのだろう。
つまりムガノガは「偽善ではない」と言うことだね。
●選挙
ここの市議会議員選挙が始まったみたい。一つ疑問なのが、公明1・共産1・無所属14が立候補している。自民党がいない? そこに自民バリバリの議員だった兄が来たので聞いたら「自民党は嫌われるから無所属にする。自分も無所属だった」だって。なにそれ! ほんと二枚舌だね。党などのグループ根性も気持ち悪いけど、癒着密着所属しているのに無所属ですなんて嘘つきじゃん! ズルこいな! 全然正々堂々じゃない賢しらな奴らじゃ。
イスラエルとハマスの戦争は昔イギリスがやった三枚舌外交のせいだと聞いた。三枚舌より二枚舌がまだマシだけど、小さな村でイカサマはいけないな。
しかし人はせっかく清浄な心を持って生まれてきたのに、何故にわざわざ汚すのだろう? 「嘘も方便」とか言い張るのだろうか? それは仏教を知っているならまだしも、一般的には「泥棒の始まり」と言う意味だよ。
●無我
旅行記『無我の意図』の感想が届いたので、読み返してみた。
『無我』とは?
喩えば目の前に『池』がある。池の中を調べる。水があって睡蓮があってメダカやその他諸々、しかしどこにも『池』はない。これらの条件が揃ったものを『池』と言うだけで、『池』本来はどこにも存在しない。「池は無い」が真実で、仮に『池』という名称をつけられただけだ。『水』にしたって、調べれば酸素と水素の結合体で『水』そのものは無い。『酸素』もまた無い。もちろん『私』も無い。ここでわかるのは僕らが言葉で在ると思っているものの実体は悉く無い。その言葉をいっぱい並べたのが『思考』だ。
『無我の意図』では『我』を「思いや計らい」としている、つまり『我』=『思考』だ。『無我の意図』とは「『思いや計らいが無い』からのメッセージ」ということになる。人は誰でも思いや計らいを持っているが、それは不在であって、思いや計らいがない実在で生きている。だからこそ実在する思いも寄らない無我の意図を素直にきちんと受信することは重要だ。それは『私』の好き嫌いとは関係ない。