●渾沌の死
一昨日の菩薩から荘子の『渾沌の死』という詩を思い出した。若い時にこの詩を読んで感動し、のちにモノクロの渾沌猫を創作する。
『南海を統べる者、儵(シュク)。北海を統べる者、忽(コツ)。中央を統べる者、渾沌。
儵と忽とは度々渾沌のところに出向き、手厚いもてなしを受けた。
ふたりは渾沌のもてなしに応えたいと思って考えた。
「人には目鼻口耳と七つの穴があるが、渾沌にはそれがない。
では、その穴を彼のために開けてやってはどうだろう」
儵と忽は、一日にひとつずつ穴を開けていったところ、七日目に渾沌は死んだ』
この詩を思い出したのは一昨日の華厳経の兄弟『早離と即離』の名前だ。実は今回の『儵と忽』の名前の意味も「瞬く間」で同じ早急な意味なのだ。しかし内容は全く逆だ。
人間は誰もが大昔からほぼ代わりなく同じく年月を重ね歳を取る。それに対して外側の文明は快速開発早急進歩だ。気が早い頭脳が社会を早急にしている。現在はもっともっと早急だ。頭だけが先に進んで身体が追いついてない。
目鼻口耳が無い渾沌は情報に操られず、外の世界を気にすることもなく、自分のリズムでのんびり静かに生きていた。早急な『儵と忽』が余計なことをしでかすものだから渾沌は死んでしまった。昨今「タイパ」などの言葉が持て囃されるのは『早離と即離』の内面理解の早さや気づきを『儵と忽』の名が示す社会の情報の早さに勘違いしてしまったのだろう。
人間は『早離と即離』を後回しにし、『儵と忽』のように社会を早急に変化させようとしている。そろそろ気づいたほうがいいと思う。人間の中の創造的な渾沌が死んでしまう前に…
さて坐禅は頭に流されず静かに座るだけだ。
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