●トリ
庭に珍しい鳥がやってきた。
お腹がキレイな白色でこれまで見たことがない。
持っている鳥図鑑で調べてもわからない。
ネットでやっと似た鳥を見つけた!
名前を調べたら
『シロハラ』
そのままじゃん!
しかし、本当にキレイな白いお腹だから、
誰だってその名前をつけるだろうね。
*写真は携帯に双眼鏡をつけて撮りました。
一つがシロハラ。
もう一つはシメ、嘴がデカく木の種の殻を割って中身だけ食う。
よく落とさないものだ。
●幸せ〜
金があれば幸せになれる。
才能があれば幸せになれる。
美男美女なら幸せになれる。
とか言う
けど
そんなものなくても幸せなものは幸せだし、
そんなものあっても不幸なものは不幸だ。
だから幸せとこれらとはなんの関係もない。
●展覧会情報
Cat アートフェスタ
2023年02月08日(水)~2023年02月14日(火)
9:00~21:00
丸善・丸の内本店 4FギャラリーA
東京都千代田区丸の内1-6-4
よろしくです。
●坐禅
坐禅との出会い。
2020年、コロナ禍でこれで死ぬかもしれないと思い、自分のこれまでを振り返ってみた。
自分は作家としてこれが自分だと言える作品はあるのか? 答えは「ない」だった。そこで真実の自分の作品を制作しようとアトリエに入った。この時アート制作においての心構えを立てた。
『既成の美術や哲学や思想などを念頭に置かない。作品に対する他人の評価や販売など一般世間を介入させない。先入観や目的・目標を持たずに目の前を見る。何にも捕われないように注意しながら進める』など。
制作した結果、世界のどこにもない図を発見した。これをとりあえず『わ』の図と名付け、言葉にまとめ本にでもしておこうと思い、どうせなら英語にも訳しておこうとアメリカの知人の女性に連絡した。彼女は驚いたことにアメリカの道元道場に通っていた。彼女は現在39歳、去年の暮れに出家した。
彼女と色々話しているうちに坐禅に興味が湧いてきた。そして気付いたのは『わ』の図の立体作品が坐禅の形に似ていることだった。ここで『わ』の図から坐禅する自分と完全に繋がった。
彼女のおかげで彼女の師匠の奥村正博さんの著書を読むことになる。奥村さんは僕より九つ年上で近い世代だ。奥村さんが高校時代に読んで感銘し弟子入りした内山興正の著書『自己』を読む。内山さんはクリスチャンであり禅僧というから面白い、考察が深い。そして内山さんの師匠の澤木興道の本を読む。澤木さんは全く濁りのない人間だった。歴史は遡り、道元、仏陀へと繋がる。この濁りない連綿とした流れは実に清々しい。ますます坐禅に興味が増した。
ちなみに澤木興道の弟子がフランスでレヴィ=ストロースなどに禅を伝えている。レヴィ=ストロースは僕の好きな学者だ。アメリカにはスティーブ・ジョブスが傾倒した禅僧の鈴木俊隆がいて、彼は坐禅を知りたいアメリカ人に、日本に行った時には内山興正がいる安泰寺を勧めていた。スティーブ・ジョブスの好きな言葉「Stay hungry. Stay foolish.(ハングリーであれ。愚か者であれ)」は禅の言葉そのものだ。
このようなことを知ることで、自分のいる時間・空間が明確になり、時空の中心にある坐禅が人々には必要なのだと気づき、坐禅が自分の日常になった。
●マツタケ
今日も雪掻きクラブ活動。風呂上がりに床に横になってうとうとしていたら、マツタケの香りがする。なんだろうと薄目を開けたらチョコだけでなく黒猫のヨゾもいた。屍に群がるハイエナのような。
ヨゾは18歳でデカイチョコが一目置く狩りの名猫だ。狩りに集中して庭から帰らず、庭で野宿することも度々あった。そのヨゾも年老いて人間で言うなら90歳になる。高級なマツタケの香りがしてもおかしくはない。実にいい香りだ。
ワシも歳で、そろそろ加齢臭がしていると思うが、坐禅しているので心すこぶる清浄で誰も食べたことないような高級マツタケの香りがすることだろう。皆さんもただの酸っぱい年寄りにならないよう、坐禅でもして高級マツタケを目指そう。
●クラブ活動
さて雪が降り続いています。今日も『雪掻きクラブ活動』ですね。昨日はSSがまだぎっくり腰なので単独自主活動だったが、今日は良くなったので協働活動だ。
昨日、協働は活気が湧くことを説明した。しかし昨今は家族がバラバラで若夫婦はサラリーで、家に残っているのは年寄りだけ。一人暮らしも多い。これでは協働は無理。では活気がないかというとそうではない。クラブには単独自主訓練がある。これは平常心さえ養っていれば、雪掻きなどはなんの苦もなくかえって清々しい。いわゆる坐禅のようなものだ。前に言った『地獄にホトケ』、つまりホトケに包まれるのだ。
清々しい雪掻きの後は、風呂入り、横になるとチョコがやってきて、頭から噴き出る汗を舐めまわし、マタグラで寝る。このポーズがヨガでいう『屍(しかばね)のポーズ』。死んで極楽。
●活気
寒波。気温も低く風が強かったが雪はそれほどでもない。雪掻きなどは他人が思うほど辛くもなければ地獄でもない。地獄なのは人間関係だ。人同士が協働すればこの静かで美しい地での雪掻きなどは楽しいクラブ活動だ。協働といっても生産性を上げるためにベルトコンベアーの分業ではない。「オレ知的労働で、オマエ肉体労働。ワタシ勤め人で、アナタ雪下ろしね」とかさ。なんかね、そんなもん全然楽しくない。協働というものは同じ仕事を協力して楽しくこなしてゆくことだ。
協働することで肉体的には活性化され、心的成長としては楽しい会話や感謝や思いやりや労いや助け合いが生じてくる。そして終わった後、温泉や飲み物やお喋りや笑い。これらが活気になって心身に降り注ぐ。
子供の頃見た親たちの仕事や自分の若い頃は何かの協働の後には打ち上げや祭りなどの活気があった。ただ逃避として作業に集中するとか収入が目的とかではない。この活気、生命力、これが内から沸々と湧きあがるから人は集まっていたのだ。
大人も子供も踊るアホウも見るアホウも活気に満ちるがいい。
雪掻きしながらこんなことを思った。
●テーブル
いつも使っているテーブルを大工。
家ではもちろん、庭でも
どっかの公園や広場へのピクニックにも
椅子と一緒に持っていっていたもの。
結構気に入っていて、
壊れては直し、
天板が反り返っては補強で重くなっていた。
雪掻きないのでちゃんと直すことにした。
あーだこーだと頭と体使うから、
大工って楽しい。
●春のよう
天気続きで雪なし。
新しい長靴買ったのに、つまらん。
今日はまるで春。
体が鈍っているので(言葉も)
新長靴でデッキの雪を掻いた。
いい感じだ。
汗かいたし、青空だし、
最高の気分のまま
庭で白湯を飲んだ。
●前後際断
いつも一日二食で昼は食わないのだが、昨日は朝を少なくしてランチの誘いに乗った。そして遂に多分なんと47年ぶりに出身高校を見てしまった。
高校のことを忘れている自分はなんなのだろう考えてみた。そこで禅語の『前後際断』という言葉を思い出した。意味は「前(過去)と今、今と後(未来)の際を切り離して今を生きよ」というものらしい。
大学時代までの自分の過去は絵描きになろうとして断ち切ったのだろう。その学生時代の思い出やら交友関係やら風景まで断ち切ったようだ。だから昔の同級生とかに過去に引き摺り込まれそうになると、思い出に花咲くこともないわけではないが、何かに縛られ息苦しい感じになる。この息苦しさが問題だ。
その後、絵描きという過去を断ち切り、猫作家になった。やはり交友関係や風景が変わった。そして今度は60歳の還暦、生まれ直そうとまさしく『前後際断』、猫作家を断ち切り、ペリペリという画法を発見し平面創作するようになった。
そして今、過去も未来も全て断ち切る坐禅をしている。坐禅は無意味で観念もないから完全な『前後際断』なのだ。
僕なりの『前後際断』とは「固定した思いをいつだってペリっと剥ぎ捨て、思いなど何もないところにピタッと留まること」だと思う。世の中の根底はこれでできている、いわゆるこれが真理だ。ここが息苦しくない絶妙なところ、一般的には幸福というところだ。戦争などはただの無知だね。『前後際断』を知ればいい。
●ノリ
ハラリの『サピエンス全史』に脳が大きかったネアンデルタール人が滅びたとあった。脳が大きいと物事を小さな概念にして脳内に所有する。それが物語作りだろう。そうなると概念でない生の実物を恐れるようになる。それでは生の自然から離れるし生身の自分をも恐れるようになる。それで自ら滅びたのだろう。うまい作り話にノせられてしまったのだ。うまい話には裏があるのにね。
ハラリは今の人間をホモ・サピエンスとして語っているけど、実は大きな脳の滅びゆくネアンデルタール人になってしまっているかもね。人間のこの足掻きと加速はそんな風に感じられる。足掻いたからって加速したからって実物が手に入るわけでない。うまい話がどんどん誇大妄想になるだけで、それに伴って実物はどんどん遠ざかっていく。じゃあ反対の減速かと言うとそうでもない。減速も加速と同じでネアンデルタール人の作ったうまい話の一つかもしれないからだ。
さて生身の人間が生きるには呼吸が必要だ。呼吸は吸ったら吐く。人類にも呼吸が必要なのだろう。だからうまい話が『吸う』なら『吐く』が必要だ。『吐く』とは「うまい話にノらない」だと思う。これで社会の荒波など軽くノリ超えられるだろう。ノウの大きい奴より、ノリのいい奴になろう。
●感謝
ネコ柵が屋根からの雪でたわんだので、雪を取り除いた。そして業者BGMを呼んで直してもらった。
BGMは一年前から坐禅をしている。僕の周りでは坐禅人口が増えているのだ。彼にこの間の絵日記に書いた『地獄にホトケ』の話をし、「ホトケは地獄でこそ会えるんだ」と言うと、彼は「感謝すると会えるよ」と言う。ほー、素晴らしい! 「柵の周りの雪を掻いてくれてありがとう」とまで言う。おれんちの猫柵の雪なのに。
『感謝』を考察してみた。
雪掻き地獄でホトケに包まれるのは、雪を嫌っていたエゴが身を引いた時だ。この至福感がホトケであり感謝なのだろうと思う。
僕らの心臓は勝手に動くし呼吸も勝手にやってくれている。身の回りには生きるに必要な空気があるし水だって食料だって太陽だって、なんでも用意されている。つまり我が身は内部の内臓だけでなく、外部周囲環境全てに生かされているわけだ。オレ以外の全部に生かされていると言うそんな知らせに感謝するのは当然だろう。
感謝とは自分がゼロにそして他が全てになった時だと思う。そりゃぁー、ほんとにホトケに包まれていることを知るんだろうね。
●猫跡
柵をよじ登り、庭に着地した跡があった。
あいつだな、たぶん。
雪がない時
チョコと柵越しで
いがみ合っている他所の猫。
それにしてもすげえな、あいつ!
柵を無視して庭を横断している!
チョコが真似したら、問題だ。
柵を作った意味がないではないか!
チョコ8キロだから無理か!