●当たり前
最上川を見ていたら、やけに小さな白鳥がいる? よく見たら鳥の形をした雪の塊だった。鳥のフリして下流に流れていった。そのうち川とともになって消えるだろう。
自分もこの雪鳥のように歳と共に変化し流れている。猫のマッピョは洟垂れになった。これが当たり前になって日常になった。イゴは痩せて背骨がゴジラになった。これが日常になった。母親が入院した。これが日常になった。こうやってなかったことが現れて日常になる。これからもまた違う変化がやってきて日常になる。
しかしその新しい日常も流れていって日常でなくなる。当たり前だったことが当たり前でなくなるのだ。やはり何もかも変化しながら流れる。これで常がない無常であることは分かった。当たり前がないのが当たり前なのだ。だから日常が変わったぐらいで思い悩むことはないはずなのに、人間は日常を常だと思い込んで無常を思い煩う。
ふと思う。当たり前などないのに、わざわざ当たり前のように助けてくれている人に対して感謝するのは当たり前だ。でも最も感謝すべきは、過去の当たり前にしてくれていた人や環境に対してだろう。例えばこの世にいなくなった親や知人、会わなくなった友人、来なくなったお客さんなど。亡くなった親やペットには手を合わせるぐらいしかできないが、生きている友人・知人・風景・環境、それらは当たり前でない日常を当たり前のように大変楽しくしてくれたり、何事もないように周りを整えてくれたり、いい刺激を与えてくれたり、退屈や苦しみを取り除いてくれたりしたのだ。
今は、自分から離れた当たり前にしてくれていた人やあらゆることに、どうにかして感謝を示したい。ここに幸福とかなんやらのヒントがあるように思う。
写真:ゴッホ猫
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