2026年1月19日月曜日

[9050] 一と多

 ●一と多
百観音や龍安寺石庭などを考察していて思う。
私には『おみくじ百覧会』『神仏百覧会』
『スウォスス曼荼羅50』『誕生日猫366』など
数に関するものが多い。
これらの作品は一セットだ。
一が多で多が一なのだ。
自が世界全体で世界全体が自。
人は数の多さを競う。
競っている時は一でも多でもなく部分だ。



2026年1月18日日曜日

[9049] 楽しみ

 ●楽しみ
腹が減っているからなんでも美味しい
知らないからなんでも知ることが楽しい
この余裕や楽しみがあるから
日々『満たされている』
『足りない』からこそ
『満たされている』がわかる
不完璧だからこそ全完璧
鳥は鳥で完璧、猫は猫で完璧
若者は若者で完璧
老人は老人で完璧
あなたはあなたで完璧



2026年1月17日土曜日

[9048] 優る

 ●優る
瀧安寺の石庭が示しているのは
この世に完璧はないということだ
AIもこの世のものだから完璧ではない
例えば鳥も猫もやはり完璧ではない
だから鳥と猫のどちらかが
優っているわけではない
ならば人間とAIのどちらかが
優っていることもない





2026年1月16日金曜日

[9047] 完璧

 ●完璧
 山形県には山形出羽百観音がある。『最上三十三観音、庄内三十三観音、置賜三十三観音』合わせて九十九観音なのだが、名称は百観音。私が個展した目黒雅叙園の百段階段も百ではなく九十九段。龍安寺の石庭の石は15個あるのにどこから観ても14個。
 昔、沖縄に行った時、西表島で変な社に入ってカメラが壊れた。その後、竹富島でユタに会ったのでその話をしたら「オンの奥には男は入っていけないのさ」と言われた。オンは御嶽(ウタキ)のことだ。御嶽は女性器で人間はそこから生まれ出てくるもので戻ってはいけないらしい。私はユタから古い資料を見せてもらい、竹富島には御嶽がたくさんあることを知り探し回ることにした。その頃、私に「オンフラー」のあだ名がついた。意味は「御嶽気狂い」。御嶽は何個あったか忘れたが30近くあったような気がする。大きなものから石一個だけのもの、林の中とか誰も行かないようなところにもあった。全部探そうとしたが最後の一つだけ残して帰ることにした。
 私の旅はまだ終わってないということだ。完璧なものは余裕がない。余裕がなくなるのが完璧なのだ。それは終わりのことだろう。招き猫のあの手は一歩引いてのポーズ、だから福を招くと言われる。



2026年1月15日木曜日

[9046] 俳句

●俳句
『古池や蛙飛び込む水の音』
芭蕉の俳句の中では無色透明清々しく
また最もぶっ飛んでいる句だと感じる
これもペリペリと同じで音を観た様相だ
つまり芭蕉は観音様を観た
そこで一句
『ペリペリ画紙が剥がれる神の音』
 





2026年1月14日水曜日

[9045] ペリペリ観音

 ●ペリペリ観音
「ペリペリ」は紙を剥がした時の音だ
剥がれたのはアート制作中の失敗だ
ところが思いを超えて綺麗に観えた
音が観えた様相なのだ
だからぺリペリはそのまま『観音様』
これまで粘土で観音猫をたくさん作った
でも造形も絵画も写真も言葉も
全て観音様の模写でしかない
模写とは記号や符牒であってあくまで偽物
そのものではないのだ
炎の写真を触っても火傷はしない





2026年1月13日火曜日

[9044] 托鉢:ペリペリ画法

 ●托鉢:ペリペリ画法
子供の頃、シャーペンを買った時の疑問
この細い芯を作る工場が潰れたらどうすんの?
このような疑問は大人になっても続いた
油絵をやり始めた時の疑問
西洋の真似ではないのか!
写真を撮った時の疑問
カメラは誰かが作った機械ではないか!
水彩画も日本画も昔の真似だ
概念は借り物の言葉だ
他所者や借り物には頼りたくない
招き猫ももちろん他所のものだ
そして偶然見つけたのがペリペリ画法だ
古今東西どこにもない私独自の画法だ
この時の感動は
なんでも盛れる自分だけの器を持った気分
これが私だけの『托鉢』なのだろう
大きくもなく小さくもない器だ