人間は口八丁手八丁
ホムンクルスは口と手がバカでかい
これオレじゃないか!
肖像権があるのにな‥・
口八丁だけなら権謀術策
詐欺に二枚舌にただの嘘つき
偉い先生方は口先だけで手は人任せ
口は災いの元
手がないから前につんのめる
手をいっぱい使えば転ばない
悪い手ではなく善い手
武器ではなく楽器とかね


●NY
手で思い出した。旅行記『無我の意図』にも書いたこと。
20代後半、世田谷美術館で友達が個展をしていると言うので自転車で出かけた。見終わり暇だし地下の喫茶店でコーヒー飲みながら自分の手をスケッチしていた。そこに「スケッチを見せてください」と誰かが。見たら髪の毛は七三分けでこのクソ暑いのにスーツ姿に黒縁メガネの薄っぺらなガッカリ兄ちゃん、あ〜つまらん人間だ。こんな奴、生かしておいてもロクなことがないと思い、僕はカバンの中の拳銃を取り出し彼の額を撃った。ボコッと音がして彼は崩れた。それでも起き上がり「NYで展覧会しませんか?」と。ほんとですか!と薄っぺらの薄っぺらい言葉に喜ぶわけがない、かと言って無碍にするほど冷たくもない、断るほど冒険心がないわけでもない。でトントン拍子に事は運び、やることになった。手で得た手柄だね。
●名手
スポーツもアートも身体を手を使う。サッカーは後ろ手ね。これらは身体が主役だ。書道では同じ文字は二度書けない。どんな文字も良いし良くない。だから正否はない。パソコンも手を使うがどれも同じ突起で同じ文字が出る。『A』が柔らかい突起で『B』がゴツゴツしているなんてことはない。場所が違うだけ。だから手を使うものの頭が優位だ。間違った文章は手ではなく頭のせいだ。頭は間違う。手は間違わない。手はいつだって上手で下手で名手だ。
●手と眼
人間は手で飯を食う。子供の頃、ナイフとフォークで食事している人間を初めて見た時、歯に金属がぶつかって嫌な感覚も一緒に食っている感性が劣る野蛮人だなぁと思った。日本人は箸を器用に使う。だから手はどんな動物よりも他の国のどんな人間よりも高度な技術や感覚を持ち合わせている。箸でも他の国の箸は金属だったり日本の箸の持つ繊細さはない。
さて上からいきなり下の話。うんこは自分の手で拭く。インドは右手で食事をし左手でうんこを拭く。とにかく人は生きるための入り口から出口まで自分の手を使う。それから指紋は己独自のもの。触ったものは見ているかのように何かがわかる。己独自の理解なのだ。眼と同じような役目をする身体の部位は他にないだろう。手は世界の何もかもを観ている。千手観音の手には眼がある。触れば観える。手は宇宙を観ている。
●勝手
なぜ手か?
世間一般的には「頭を使う」やつが偉いような雰囲気がある。人間は頭が身体を使っていると思っているのだ。だから社会でも知的労働が上で肉体労働が使われているような感じになる。これは勘違いだ。
私は「手を使う」ことを勧める。勘違いを払拭するためだ。身体を使う人はスポーツ選手以上に自分の職業に自信を持つべきだね。自慢も卑下もなく。なぜならそれらは頭の所業だからだ。
さて頭は身体を使っているのではなく、頭は知識に使われているのだ。その知識も過去の知識や概念で古びたものだ。昔のものをコレクションしているような頭なのだ。『温故知新』という良い言葉もあるが大抵の人は温故だけ。知新に行くには手が重要。ふと思い出した。誰かが私に「あの方は張り子民芸を一万点収集しているんだよ」と自慢げに言っていた。それがどうした? 私は自分の手で新しい民芸を一万点以上作っている。ほら、いつだって今の手が勝つのだ。だから『勝手』と言う。手は自由そのもの。私は自由勝手気ままなのだ。
●自受用三昧
久しぶりにサム君に会った。彼はイギリス生まれで40前半。もはや日本人もやらない杵と臼で餅つきを生業の一つとする。雪が降り積もるとひとり一時間歩いて雪山に入りじっとイノシシを待つ。罠猟もやるが、イメージするだけでも孤高の『忍び猟』が好きらしい。一度に四頭を得たことがあり、雪山を一時間以上かけて運び降りてくる。「クマと会ったらどうするの?」と聞いたら「撃つ」と一言。
そんな彼は詩を編みセーターを編む。編んだセーターは家族にもあげる。時に毛糸の色で悩んだりする。世界の覇権国やら纏っているものを全て切り、自らが編んだセーターを着る。彼はいつも身体を手を使って生きている。『自受用三昧』とはこのことだろうと思った。
●ロープ
益子に展示したロープ作品が売れた
ガハハ、あんたは偉い!
嬉しありがた
自分はロープに頼りぶら下がっているとする
ロープが切れたら自分の命はない
ロープがあるから自分がある
ならばロープも自分だ
ロープを繋いでいる木も自分だ
木を生かしている地面も大気も水も太陽も自分だ
太陽に生かされている何もかもが自分だ
*でも落ちないように