●東西
西の伊勢参り、東の奥参り
西の金閣寺、東のサザエ堂
西の龍安寺石庭、東のサトリ堂
ってね。
もりわじん絵日記
2025年12月30日火曜日
2025年12月29日月曜日
[9029] 瀧安寺石庭とサトリ部屋
●瀧安寺石庭とサトリ部屋
個展も終わりサトリの部屋を振り返って瀧安寺石庭が過った。
古今東西、瀧安寺の石庭に勝る芸術はないと私は思う。(500年以上も前のものだ)
巷にある芸術作品はたくさんの石を積み重ねる。石とは知識やアイデアや金や人や時間などあらゆるものだ。人間の思考とは目的に向かって石を積む。しかし未来に対して不安なのはいつも石が足りないのだ。
瀧安寺の石庭はとてもシンプルだ。深遠な智慧と最低限の材料だけ。草木もない枯れた風景だ。15個の石が配置されているのだがどこから見ても14個しか見えない。だから石はいつも余分にある。閉じてないのだ。足るを知るからこそ終わってないのだ。自慢げに15個見えたという者がいるなら、残念だけど閉じちゃったね。人間はいつも足りないことがわからない。
サトリの部屋は瀧安寺の石庭に匹敵しうる。後世に残すべく、どこぞに『サトリ堂』でも作ろうかしら。
2025年12月28日日曜日
[9028] 中道
●中道
サトリ画の流れで『猫なし』にハマっている。
今回は猫手の『猫あり』と平行して描いている。
それぞれ面白い。
『猫あり』が足し算で『猫なし』が引き算って感じ。
右、左、右、左と歩いているような。
あー、これが中道か。
2025年12月27日土曜日
[9027] 幽体離脱
●幽体離脱
幽体離脱という言葉がある。
寝ている自分を天井から眺めていたとかだ。
この場合、幽体というのが本体で
寝ているのは仮の皮袋のように考えている。
しかし幽体の方が名前からして幽霊の幽、お化けだ。
そのまま離脱させちゃえば意外と清々するような。
まぁそのうち恨めしくなって本体に返ってくるけど。
例えば寝ている美人さんがいるとする。
爆睡、口開けてイビキガーガー
涎たらたら服もはだけて屁までこく。
あの美人はどこに行ったのか?
幽体離脱したのだ。
2025年12月26日金曜日
[9026] へのカッパ
●へのカッパ
SS「『へのカッパ』って、
『カッパのへ』ならまだわかるけど、なんで『へ』が主役なの、どういうこと?」
オレ「カッパがへだから、へがカッパ。だから『へのカッパ』も『カッパのへ』も同じ。主役・脇役なんてないんだよ」
SS「いつも口から出まかせばっかり喋ってるぅぅう♪」(YUKI [JOY])
2025年12月25日木曜日
[9025] 和
●和
今回、陶芸の街益子で陶芸以外の絵、それも猫作家なのに猫でもないサトリ画を発表した。全くのお門違いをさせてもらったわけだ。川は湧き水から海だって川だ。おかげで海のあっちの霞が晴れたような。今はあっち意識で描く絵も面白い。これは二足草鞋的だ。考えて見れは何十年とズーっと二足草鞋のような、いつもこっちかあっちかの岐路に立っていた。一つにまとめたいのだがなかなかうまくいかない。だいたい目も耳も鼻の穴も胸も手も足も金玉もなぜか二つずつある。口は一つだが入口だとすれば下に出口があるから二つだ。ではチンチンは? 一本しかない。しかしこれはマンマンと対になるから空間を隔て二つだ。『二』とは世界の実際をどちらか一方に偏らせがちな人間に対する気づかせメッセージなのかも。これは一つだと思ったとき、もう一つは必ずどこかに潜んでいる。ではこれら二つの中道は一つ? 人間はそれを見ることはできない。プラスとマイナスの和のように消えてしまう。
そうそう昨日、警察が来たと思い捕まるまいと逃げ道を探していたら、花輪くんだった。彼は躁鬱眠れない体質。彼に絵をいろいろ見せて思ったのは、こっちやあっちがない。どちらかというとあっちの絵を大いに好む。彼は二足草鞋どころか裸足いや裸だと思った。眠てないせいで現実なのか夢なのか、荘子の『胡蝶の夢』そのものなのかもしれない。
2025年12月24日水曜日
[9024] 自由
●自由
焼き物でも絵でも料理でもなんでも
全ては手作業の結果だ。
子供にクレヨン持たせればわかる。
いたずら書きをし始める。
目の前が色とりどりに変わる。
すると楽しくなる。
自分が変わったのだ。
最初に手の行為があるのだ。
手を使用すれば自分も世界も変わる。
世界を変えるには理屈ではなく
手を使うことが一番手っ取り早い。
手に銃など持たず自由を。
そして後ろ手(別名足)で歩こう。























