●頭と身体
頭とは思考のことだ。
身体の頂上にいるからか自惚れて
身体を蔑ろにして行き過ぎる。
飲みすぎて胃を壊すとか。
顔を造り変えるとか。
自傷とか自死とか。
頭は頭と身体を分けて考える。
だから無知なのだ。
身体とは自然のものだ。
いつかは壊れる。
肩が痛かろうが熱があろうが
頑張って何も言わず
休みなくいつも頭を支えている。
だから慈悲深い。
身体はずっと頭と共に生きている。
これで頭は智慧を得て
事事無碍法界。
●頭と身体
頭とは思考のことだ。
身体の頂上にいるからか自惚れて
身体を蔑ろにして行き過ぎる。
飲みすぎて胃を壊すとか。
顔を造り変えるとか。
自傷とか自死とか。
頭は頭と身体を分けて考える。
だから無知なのだ。
身体とは自然のものだ。
いつかは壊れる。
肩が痛かろうが熱があろうが
頑張って何も言わず
休みなくいつも頭を支えている。
だから慈悲深い。
身体はずっと頭と共に生きている。
これで頭は智慧を得て
事事無碍法界。
●今
自分の身体が実際の『今』以外に
どこかにいることはない。
『今』というのは意識できない。
今と思った瞬間に過去になる。
今など常に動いていて頭がついてゆけない。
だから頭はいつもイメージの過去
もしくは未来のイメージを描く。
頭は実際の今を体験できない、
身体は実際の今しか体験できない。
頭は時間を歴史的直線で捉えるが、
身体は時間空間そのもの。
頭はスタートを定めゴールを目指すが、
身体はいつも今を歩いている。
頭は他所を夢見て、身体はここにいる。
頭は無知、身体は無我。
●空模様
身を守るために好き嫌いがある。
栄養ある美味いものは好きだし、
病気になるような食べ物は嫌いだ。
しかしいちいち好き嫌いに翻弄されて
嫌いなもの避けていたら
潔癖症という嫌いな病気になったりして。
例えば雲が「好き嫌い」だ。
その雲を包んでいる空がある。
つまり空は好き嫌いを超えている。
空に好き嫌いなどないのだ。
雲は現れたり消えたりするが空はいつだってある。
この雲の好き嫌いが理屈と力で善悪に固まる。
しかし善悪も時代によって雲のように変化する。
空は善悪をも超えている。
現実全ては空模様。
●道元
気の『元』は坐禅にある(経験済み)。
坐禅の発起人の名前が『道元』だもの。
元や始めを捨てて未来に進んでも
未来は未だ来てないのだから幻だ。
これでは足の置き場がない。
代わりに金だ快楽だと目的を作る。
それでもやはり浮き足立っている。
そこでまずは元に戻ってみる。
毎日の始めが朝にあるように。
昨日のことも明日のことも
頭から忘れて
早朝坐禅!
一日全部坐禅になる。
一日、元の気だらけ。
これで元気の道(未知)を歩める。
●元気
この間、30代の女子に「なんでそんなにエネルギーがあるんですか?」と言われた。別に普通、どちらかと言えば弱っちぃ方だ。多分彼女は『元気』の使い方を知らないんだ。
『元気』とは「元の気」だ。『元』は源や初心であって将来ではない。大抵みんな将来を「悩み煩い」エネルギーを消耗している。または誰かと自分を比較する癖がついていて自分に自信がない。ここでも「悩み煩い」エネルギーを消耗している。悩み煩いが『煩悩』。煩悩を抱える気力があるってことは元々『元気』があるんだ。元気の使い方が将来や誰かではなく、よく言われる『今・ここ・自分』に使うことだ。それを正直に現しているのが、どう見たって『今・ここ・自分』でしかないあの坐禅の姿。とにかく実践、『今・ここ・自分』がいつの間にか身に付く。その手の学びも必要だけど、そのうち元気に叫びたくなるような気づきがバンバンやってくるよ。
●三昧
薪割り機、オイル漏れてた、ガーーン!
集中していて気づかなかった。
よく集中を三昧とか言う。
ゲーム三昧とか
それは三昧ではない。
ゲームに捉われているだけ。
ゲームは目的があってやっている。
勝った負けた儲かったとか。
目的などないのが三昧だ。
それにゲームは雑念を無視する。
坐禅は雑念がよくわかる。
これが三昧だ。
●天気
庭に雨が降ろうが、晴れようが、
風が吹こうが、嵐が来ようが、
雪が降ろうが、雹が降ろうが、
天気は天気
天気であることに変わりない。
全部、天気の表情。
人も笑ったり泣いたり辛かったり
落ち込んだり嬉しくなったり
いろんな表情をするから人間。
時にあまりに揺れすぎて
考えや感情に中心を奪われる。
坐禅が平常心。