2017年1月31日火曜日

[5879] アニミズム

●アニミズム
 日本ではアニメが盛んだ。アニメはアニミズムと語源は同じだと思う。アニミズムはあらゆるものに霊魂が存在するという原始宗教らしい。でもここで原始宗教とか言われているが、それはキリスト教からの考察だと思う。キリスト教は唯一神だから他の宗教や信仰を排除するか、あることを認めたとしても横並びではいけない、他は下位なのだ。そこで原始という名をつけて古いものとしてしまったのだと思う。もしかしたら古くないし、地に落ちたわけでもなく、これから肉付けされる新しい観念かもしれない。今、日本からマンガやアニメが世界に膨らんでいることを鑑みれば、この多神教的アニミズムはずいぶん現実的で革新的のように思える。
 僕はアニミズムを高く掲げ自分のコンセプトにしようなどという言葉で絵を括るような情けない真似はしないが、心の深部にアニミズム的要素が潜んでいて、最近は頻繁に顔を出し、絵に神秘性や柔軟性を与えてくれているような気がする。

2017年1月30日月曜日

[5878] 猫の首っ玉

●猫の首っ玉
 客人が来た。チョコビッチが彼の座っていた椅子に噛みついた。これはうちでは日常のことだ。なんと、彼はチョコの首っ玉を掴んで、さも猫の扱いに慣れているように持ち上げ抱いて撫でた。この行為は僕の気分を害した。しかし悪気はない人なので放っといた。でもちょいと気になったので考察。
 この家にいる猫は僕にとって大事な息子や娘だ。猫を飼っててもただの装飾品としての猫やその性質からネズミ退治としての猫やただ家に居着いてしまって居るだけという感覚で猫を飼っている人には、拾ってきたただの猫が我が子というこの感覚は理解できないのかもしれない。国が国民を兵士や労働者として扱い個人としては重要視してないように、チョコは彼にとってただのその辺りの猫に過ぎないのだろう。解らないでもないが、この家は猫の形だし、僕は20年以上のキャリアを持つ猫作家で、数多くの猫を飼って、どれだけの猫の情報を得、どれだけの猫の死を見つめ、どれだけの猫の詩を詠ったことか。僕が普通の人より猫に思い入れが深く、猫そのものに詳しいことは解る筈だ。些細なことだけど、とても重要なのが、あなたの考えがどこでも通じるわけではない。世界にはいろんな専門家がいるわけで「郷に入っては郷に従え」を知ることだ。
 注意しておきたい。猫の首っ玉を掴むのはそれは悪しき習慣だ。子猫の首っ玉を掴むのは子猫を守ろうとする母猫だけだ。それにそれは子猫の場合で、大人の猫の首っ玉を掴むのは、それの上位に立とうとする意識、もしくは最悪の場合、動物の最大の弱点に攻撃、食らいつく猛獣の遣り口だ。


2017年1月29日日曜日

[5877] 大衆の為

●大衆の為
 今まで自分が二十年以上も制作してきた猫作品はポップアートとか大衆芸術の範疇だと思う。これらは作る自分が大衆が求めるものを意識して作っているため「大衆による」作品と言える。注意しなければいけないのが「大衆の為」ではないということだ。
 今年の夏の個展が決まって、自分の中から沸々と湧き出て作品化している自分自身の追求や探求としての自由な作品がある。これらは個人的だから大衆とは無関係かと言うとそうではない。大々的に発表する目的がある限り大衆を切り離して成り立つ作品など無い。これらは「大衆の為」に作られていると思う。「大衆による」と「大衆の為」のどちらが良いかという問題ではなく、己の作品の成長の過程として、今、自分の精神がこのような位置にいるということだ。
 例えば僕が住んでいる市で開催している建築コンペの審査員を頼まれて去年やった。しかし次回は辞めることにした。僕自身、誰かに審査されるなんてイヤなタイプなのに、他人を審査するなんて、自分に反している。僕が審査員をすることで市の為になると思っていたが、多少会場を面白くすることはできても、それ以上何もない。それはそうだろう、自分の心にウソついてやったことなど誰の為にもなるわけがない。好きでもない乾いた女性と市の為だから結婚して子をたくさん産んで市の人口を増やしてくれと言われても、精液の代わりにため息しか出ない。そんなことが増えれば街中にため息が病原菌のように蔓延して街は反って疲弊するだろう。それよりも僕が自分で納得するようないい絵を描いた方が、よほど市の為だし大衆の為だし世の為だ。
 僕は今、大衆による頂上ではなく、大衆の為に底辺を描いている。

2017年1月28日土曜日

[5876] あまのじゃく

去年までは猫を被っていたので、日記では人々に対してたくさんのメッセージを読みやすく構成して書いてきたつもりだ。しかし人々の深部に伝えるのは困難だった。
 人はいっぱい読むが学ばない。いっぱい書くが上っ面だけ。いっぱい語るが独りよがり。いっぱい知っているが当てにならない。いっぱい笑うがセンスがない。いっぱいものを持っているが何も得てない。
 初めから困難だと解っていたことだが、これからは名前は『もとわじん』だし、作品は『オレかぶり』になったので文章もオレかぶりに変更。
 最近、いかに人に伝えやすいブログの構成の仕方、目立つやり方などと人気取りが重要課題と頑張っている偽善者ブロガーやバカ騒ぎの偽悪者を他所に、善悪超えてオレかぶりの僕は読みやすさなど考えない、伝えやすさも考えない、クソ長くもなる、読み難いかもしれない日記を書く。わざとでなくこの方が自己探求がめざとく進歩するからだ。いつもの逆転の発想ではあるが、世を儚んだ世捨てのあまのじゃくと言った方が近いかもしれない。

2017年1月27日金曜日

[5875] 心時空

僕はたった一匹の普通のどこにでもいそうな猫に心揺り動かされた。
 当る作品や売れる作品、成功の方法論などの昨日までの考えを追究しているようなこの社会で、今、自分はそれらの上昇志向に揺れ動かされることもなく、それよりも深く儚い心情や心象や心時空を絵にしていこうとしているように思える。チョコが行方不明にならなければこんな絵など描けなかったかもしれない。チョコが外にも出ないお利口な猫だったらこんな絵は描かなかっただろう。チョコが僕の思い通りに動くロボット猫だったらこんな絵は描かなかっただろう。チョコは自由に快活に生きている。生きているってことなのだ。辛くさびしいことが多いけど、生きているとはこういうことなのだろう。
『もうけっしてさびしくはない。
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさとかなしさを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
かっきりみちは東へまがる by宮沢賢治』
 この絵はまだ未完成、なんとなくこの詩とシンクロしているように思えた。8月の個展に出します。

2017年1月26日木曜日

[5874] ありがとう

近所の魚屋さんから「茶トラの猫を見た人がいる」との情報。すぐに、うちから1km以上もあるその人の家に出かけてみる。
「すごく人懐っこい茶トラで、人を見るとニャーニャー泣いて近づいてくる。でもここ2日ぐらい見てないかな」と。
 おおおおおお、チョコビッチだ。おばちゃんが見たという辺りの小屋やビニールハウスを探す。猫の足跡もたくさんあった。もうすぐ会えると思うと涙がこぼれそうになった。最後にビニールハウスを覗いた。暖かい明るいハウスの真ん中に茶トラの猫がいた。でもチョコではないような?? ハウスの中に入り、近づいた。僕を見て泣くがチョコと声が違う。ずいぶん小さい、たぶん去年の秋に産まれた子だろう。ずいぶん人懐っこくガリガリに痩せていて、撫でてやったらお腹を出してゴロゴロした。可愛い猫だ。チョコは諦め、この子にしよう、この子でいいや。僕は行方不明になった愛しい妻を探しに旅に出たが、途中で若いもっと可愛い子に出逢ったものだから、妻は諦め、新しい若い娘とネンゴロニャンになったような。遠くでチョコがこのことを知り「ちょっと待った! そりゃあないだろう、わじんさん、わかった、帰るよ」
 じゃあ早く帰って来いよ!
 この辺りにビラを配り、家に帰ったら、電話がきた。コーヒー豆屋さんの庭に22日昼頃、猫が木に上ったりしていた。小さい茶トラではない。その後見かけてないと。木登りが得意な大きな猫はチョコだ。22日の早朝からいないわけだから、その日のうちに1km以上の地に行ってしまっていたのか。ガーン! でもどこかにいるだろう少しだけの希望が見えた。
 今春、最上徳内記念館で一緒に2人展をやる陶芸家で書家の市田さんから、「ダウジングで猫探す」というメッセージがあった。面白そうなので調べやってみた。ところがダウジングをやっているうちになぜかだんだん腹が立ってきた。チョコの情報を手に入れに潜在意識の中に入ったら、代わりに『タメ口』というものが海面に浮上してきたのだ。
 潜在意識とは海の氷山によく喩えられる。海に出た氷山の一角が顕在意識で海の中にある巨大な氷が潜在意識だ。潜在意識は無意識とかとも言うのだろう。僕らの日常は顕在意識で生きているように思えるが、底にある巨大な潜在意識の力に左右されている。その潜在意識は他の全ての動物と繋がり、細胞や宇宙、宮沢賢治の『アラユルコト』だと思う。
 僕の心身はほぼ100%がアートで生きている。僕はいろんなアーティストを尊敬している。尊敬している人に対してタメ口はきかない。そんなことをしたら嫌われる、アートから嫌われる。それは面白くない。アートは知覚の根っこであり、この科学文明社会の深くに隠された神髄である。『タメ口』とは、その神髄を小さな自分の器の中に入れて小さく扱う無礼な人間の高慢さだ。そのアートの神髄があるところが潜在意識だ。そしてチョコは巨大な潜在意識からたまたま顔を出した猫という動物だ。だからチョコもアートの神髄である。僕はそのチョコをまるで自分のモノとして小さなモノとして考えている。広大な潜在意識でありアートの神髄を、己より小さなものとして考えているようなものだ。一回Hしたから、この女は自分のものだと自慢し触れ回るバカな若者のように、女性の心を、潜在意識を捨てているような意識だ。一回二回会ったからってアーティストが身内になったようにタメ口や馴れ馴れしくする、アートの神髄を台無しにする意識だ。自分のためにチョコがいるのではない。自分のためにアートがあるのではない。自分のための潜在意識ではない。チョコやアートや潜在意識の中でダウジングの振り子のように小さく揺らされ左右されているのが己だ。チョコやアートや意識のほんの先っちょに自分がいるだけで、人は何もこれっぽっちも解ってない。自分も含め、これら人間の持つ傲慢さに腹が立ったのだろう。
 ダウジングをやって、思うようには何もならなかったが、自分の小さな器にチョコを入れようとした自己中心的な意識を反省させられた。『タメ口』に対して『親しき仲にも礼儀あり』が諭す言葉だ。そうか、チョコは小さなモノではない、そう思った。確かに弱き小動物だが、こんなに心左右させられるなんて、猫は小さなものではないということだ。逆に己が大きなものだと思っていることが自惚れなのだ。つまり『諦め』のようなものがふと僕の心の中に浸透し、昨日一昨日よりも少し清々しさを感じた。青く晴れた雪景色が奇麗に見えた。チョコはこれでいいのかもしれない。
 夕方遅く、いつ帰ってきてもいいように隙間を作っていた玄関のドアが大きく開く音が聞こえた。二軒隣りの青柳さんが「小屋に猫がいる。嫁さんが捕まえている。来てくれ」と言う。また誑かすチャチャだろうと軽い気持ちで懐中電灯もって出かけた。なんと本物の生きたチョコだった。僕は嬉しさに雪に崩れ落ち、大声を出して泣いた。僕の頭の上の木の枝でチェシャ猫がニヤニヤ笑っていた。ありがとう。チョコは間違いなく帰ってきたのだ。青柳さん、ありがとう。チョコ、アートの神髄、潜在意識よ、ほんとにありがとう。

2017年1月25日水曜日

[5873] 旅

呼べば答える人懐っこいチョコビッチでも、もしや、倒れていたり、声が潰れていたりすれば反応できない。アニニョンはネズミホイホイを身体にくっ付けて帰ってきたことがある。農家にはネズミホイホイやネズミ取りの毒入りエサだってある。もしかしてと考えたらドキドキして息苦しくなった。
 日中、近所の全ての小屋を開けて見せてもらう。とりあえず近隣の小屋にはいなかったので安堵。ではいったいどこへ、心はまごつくばかりで、この雪空のようにちっとも晴れない。
 猫共はなぜにいなくなるのだろう? 青年期、冒険がしたくなるのか。引き蘢り性の僕でさえ何を求めたのか、そういう性質が備わっているのか、青年期に何度か一人旅に出て、運良く生きて帰ったが、ヤバい経験をたくさんした。親の心配なんかこれっぽちも考えていなかった。チョコと同じだ。進化の段階で海を出て地上に、動物とはそういうものなのだろう。
 人は世界を狭く固定しがちだ。だから思い込みや固定概念や集団の考えにハマりやすい。そんな時、人はそんな疑似安定から外へ身を投じ、思いも寄らない世界の広さと同時に己のちっぽけさを体感せねばならない。己と世界がイコールだからこそ、偉大さと謙虚さを身につけることができる。部分に身を置いているだけではダメなんだ。
 万策尽きた。チョコビッチは旅に出たのだろう。あとは待つしかない。

2017年1月24日火曜日

[5872] 追跡

今朝は昨日にも増してすごい雪だ。天気予報では明日まで続くらしい。
 昨日の夜22時頃、防寒具フル装備で懐中電灯を持って近隣を眺めに行く。この時間になると、田舎だから外を通る人は一人もいない。一軒一軒眺めて歩く。結構開いている小屋や駐車場がある。これなら凍え死ぬことはないだろう。少し安心した。小屋の中に向って名前を呼んで、エサをカラカラ鳴らし、長い棒でジャラしたりしてチョコを誘うがしんしんと雪の音だけ。
 猫の足跡を見つけたので追跡する。大雪が降っているが猫の通った足跡に降り積もった雪が少し窪むので、足跡ということが解るのだ。タヌキの足跡は猫より少し大きい。辿っていったらビニールハウスの横を通って、いきなり足跡が消えた。見るとハウスの横に穴が開いていた。ハウスの入り口を開けてみる。中で物音がした。なんと、またもやチャチャだった。ガクッ。
 僕らは結果や答えを求めたがる。しかし本当はそんなもの解らない。解らないのが未来だ。その解らなさに不安を抱き、先を越して知ろうとすれば、誑かされる。今将にそれを知っているチャチャに化かされ、いつも先を越される。チャチャは『不思議の国のアリス』に出てくるあのチェシァ猫?
アリス「どの道を行けばいいの?」
チェシャ猫「どこにいきたいかによるさ?」
アリス「どこに行きたいかわからない」
チェシャ猫「ならどうでもいい。どこにいきたいかわからないなら、どの道だってそこに着くさ」
 チェシァ猫よ、チョコビッチのところにいく道を教えてくれー、頼む。

2017年1月23日月曜日

[5871] 捜査

昨晩は眠れず、
太陽が昇って明るくなってくるのを見ていた。
夜中に積もった雪と、
未だに降り続ける雪を見て、
愕然とし、
涙が止まらなくなった。
太陽が昇り朝がきて、昼になり、
太陽が沈んで夜がくる。
太陽が動いているわけではない。
オレという地球が回っているから朝がくるのだ。
オレの心に明るい朝を呼ぶのは、
オレ自身なのだ。
回ろう。
 今日は迷子猫のチラシを作り、大雪の中、うちから500m圏内にある家々に配る。これだけで一万歩を軽く超えた。膝が痛い。途中、近所のおばちゃんが「昨日の昼過ぎ、駐車場でガサガサ音がした。ゴミ餌を漁っていた。ハクビシンかと思った」と。おばちゃんちはうちから200mほど離れている。これは有力な情報だ。なるほど猫は思ったほど遠くには行かないのかも。微かな希望が出てきた。昨日のうちに各家の駐車場や小屋などを探すべきだった。初動捜査が遅れたと反省。おばちゃんちの駐車場にエサを置かせてもらう。夕方、チョコが起きて騒ぐ時間を見当し張り込みに。行ったらエサはなく、物音が! 近所のチャチャという猫が飛び出してきた。
 希望を失い、うな垂れる。

2017年1月22日日曜日

[5870] 大丈夫

チョコビッチが布団に入ってこない。
朝起きて呼べど答えない。
メシにも帰って来ない。
庭の柵が大雪に埋まって、
その表面の雪が冷えて固まって、
歩きやすくなっている。
どこへ行ったのだろう? 
雪でどこもかしこも真っ白、
どこかに行っても元来た道は見えない。
何かに目を奪われ、追い掛け、
迷ってしまえば臭いも消え、
帰り道を失う。
あちこち名前を呼びながら探す。
迷っているなら、
どこかで僕の声を聞いて、
帰る方向に気付いてほしい。
いじめられっ子のピニャモが、
アイツがいないと泣いている。
夜、吹雪いてきた。
心折れてしまいそうだ。
凍えないよう、車に轢かれないよう、
祈る。

2017年1月21日土曜日

[5869] ディレッタント

昨日いい作品ができたので、今日はずいぶん調子がいい。温泉に雪掻きで痛めた膝や腰、身体中の筋肉を癒しにいく。
 昨日の絵をiPhoneの写真に納めたので暇さえあれば、眺めてほくそ笑む。まるで子供が何度も同じアニメを見て喜んでいるような、読書好きが大好きな小説のページを適当に捲りどこを読んでも感心し悦に入るような、盗み撮りした好きな女性の写真をニヤニヤしながら股間をいじるような、自分にとっては自分で描いた絵がそのような対象のようだ。これで数日間は気分がいいだろう。でもそうもしてられない。次々と挑戦したいイメージが次々と出てくる。僕はディレッタントではない。まだまだ旅の実践中なのだ。
 絵のせいかどうか解らないが、身体の痛みをそれほど感じない。治っているような気さえする。癒しや和み効果が上昇していることにしておこう。
 写真は25歳、ネパーの湖の上、この頃からずっと旅していると思う。

2017年1月20日金曜日

[5868] 透明論

●透明論
 絵のことばかり考えている。まあこれまでとそう変わりはないけど。これで、いざ絵に向かった時、絵の微妙な点がよく見えてくるので面白い。
 今日はまあこういうものにも挑戦してみようと微かに気に入っている下書きをタブロー化してみる。描いている途中、まったく面白くない。出来が悪い。やはり微かにしか気にいってないからよくなかったのだ。「ダメだ、オレ、才能ない、こんなの没にして、得意なタッチでいこう」と思ったが、心のどこかに諦めてはいけない、これも微かな思いがあって、こんな落ち込んだ気分のまま、もうちょっと進めてからでもいいだろうと、ちょいと視点を変えて、没だと思った全体を気にせず、無視して、細部の気になる点をいじってみた。細部はもちろん生きるが全体にとっては無意味だ。しかし気になる数多くの細部をいじって生かしていくうちに、全体が生きてきた。驚きだ! 諦めて、いつものことで満足していたら、こんな感動はなかったろう。今までにない、まるで僕の内部に、こんな美しいイメージなど皆無と思い込んでいたものが表出したのだ。
 僕の奥深くに見たことのない色の光が差し込んだ。

2017年1月19日木曜日

[5867] 宇宙ロケット

●宇宙ロケット
 今は絵と並んで絵日記の言葉が偽りや大衆迎合しない新しい表現方法を取り始めている。たぶん思考や意識も変化し始めているのだろう。これは旅に出るのに必要でないものを排除しているようなものだと思う。
 『断捨離』という言葉を借りれば、乗り気のないものは断り、古い縛りは捨て、馴れ合い迎合から離れる。まあ一人、旅に出るのに、心の荷物は軽くした方がいい。
 これまで僕はいろんな国を一人旅してきた。今、身体は滅多に外国に行かないが、精神はあの旅と似ている。どうせなら誰もいない宇宙へ、ぐらいの覚悟で旅してみよう。その方がクールないいアートができる。アートは何よりも誰にとってもエネルギー源になるものだ。原発よりもエネルギーがある。そのことは小説『自由自在堂』の「万能の章」の最後に書いた。
 さて、僕は絵の具とキャンバスで旅にゆくための宇宙ロケットを作る。

2017年1月18日水曜日

[5866] 横尾忠則

●横尾忠則
 絵描きしていて、あー、そういやアーティストの横尾忠則さんは『画家宣言』を昔やったなぁと思い出した。調べてみたら彼は1936年生まれで——ゲッ、もう81歳なんだ——画家宣言が1987年、51歳だ。この頃はニューペンティングという楽しい絵描きが盛り上がっていた時代で、NYではジャン・ミッシェル・バスキアがデビューしていた。時代を敏感に感じ取る横尾さんは枠内に嵌めるグラフィックなんか面倒だと、精神の解放と自由に向かったのだろう。僕は次の年の1988年、NYで絵の展示会をする。その同じ年にバスキアは28歳の若さで亡くなった。僕はNYで彼の死ぬ前の絵を見た。確か2m四方ぐらいの絵で、印象としては、何も描かれてなかった‥‥
 ところで僕は粘土以降、一度かなり絵に集中したことがある。2001年、谷中に猫町ギャラリーができたときだ。そこで思った。今回もノリタケの森ギャラリーと縁ができた。壁のあるギャラリーが現前すると絵描き魂が炸裂するみたい。絵の世界でいうホワイトキューブって、僕は今まで縁がなかったのだ。猫町はやや違ったので、ノリタケで沸騰した。その『壁』ってのに何かあるんだろう。僕の小説『自由自在堂』に『壁の章』があり、そこに「壁が創造の引き金になる」と書いあり、深く壁について考察している。あっ! 狭いけど自在堂がホワイトキューブだった。いつも転機は壁なのだろうか‥‥
 僕の作品や絵、アート全般に興味がある方は是非この小説を読んでから僕の絵を見てくれ。壁はどこにでもあり、心の壁が一番厄介だ。壁はアッチとコッチに差別を作るから。
 写真は横尾さんが装丁した真ん中に僕の作品『猫神様』が出ている本の表紙です。この本はもう絶版、でもヤフオクかなんかで買ったという人がいました。ありがたい。


2017年1月17日火曜日

[5865] 内省的前進論

●内省的前進論
 雪掻きで身体、特に膝がしんどい。今日は筆を持つのは止めて、下書きをする。これが意外と楽しいことが絵描きに意識転換してから解った。それに結構大事だ。これまでほとんど消しゴムを使ったことがなかったのに、今は消しゴムが必需品になっている。前はチマチマやることに時間がもったいないし、時は金なりというせせこましい概念が意識を覆っていて、走り書きのようなクローッキーで納得していた。あんまし吟味せず、いい加減に描いていたんだ。それが個性だと思って自分を誤摩化していた。いやいやとんでもない間違いであった。
 いい線を探して、消しゴムと鉛筆の地味な繰り返しをすると、つまらない下書きだって、捨てたもんじゃない。まるでわけの分からん拾ったボロボロの地図のようなものに騙されて、宝探しに出かけ、トンチンカンな所で本物の宝と出会うような、どんな所にだって宝の名作が潜んでいることが解る。こういう時間の経つのも忘れる連続した小さな感動はとても大事だ。昨日の絵日記に書いた『透明な時間論』がここにある。そのうちここから方向が変わって新しい絵が目の前に出現するかもしれない。空間と時間は同じだ。一寸先は未来だ。

2017年1月16日月曜日

[5864] 透明な時間論

●透明な時間論
 次々と思いもしなかった新しい絵が出るので、ふと、これって時間の上にいる、時間を描いているんだなぁと思った。
 この感覚は二十代、絵を描き始めた頃がそうだった。どんどん新しい絵ができるので楽しくてしょうがなかった。未熟だから尚のこと毎日毎日何かにぶつかりそれを乗り越えることで上達していたんだろうと思う。
 ここ数年、時間が見えてなかったようだ。やはり檻の中にいたんだなぁとつくづく思う。檻の中でいろんなことをやるが、やはり生きているというよりはメシを食うため、経済に囲われていた。まあメシを食うことは大事だから、それが生きることではあるけど、時間は止まっていたようだ。自分で作った観念という檻の中にエサを得るために住む。それが時間を止めることだった。エサに事欠かない不自由な家畜のようなもので、そのうち檻の中で殺され他の動物のエサとなる。でも思えば、それはある完成までの道筋の一部分で、必要な閉じた時間檻だったのだろう。例えば、山形の山寺には千段以上の長い階段がある。途中に広い所がありそこで「たまこんにゃく」を食って休む。それからまた上る。
 上る時が来たのだ。さて箍(たが)を外そう。時間は再び動き始めた!

2017年1月15日日曜日

[5863] 50点

昔、あるアートディレクターが「絵は50点あれば作家像が見える」と言っていた。50点とはそれぞれが違う絵なのだが、共通の匂いを持つ。横並びの絵ではなく未来も含めて縦横無尽に広がっている感じだ。夏の個展用の自分の絵はこれぞと思うものはまだ10点ぐらいしかできてない。夏の個展会場で生で見てもらい空間を体験していただきたいのでネットには出さない。出しているのは実験や習作やいたずら書きのようなもの。これからも絵はまだまだ変化するだろうが、今のこの匂い、身体に無理がないから自分らしさかもしれない。

2017年1月14日土曜日

[5862] 宇宙へ

昨日の絵日記に『大海原を航海』って書いたけど、ふと思った。
 そんなのは時代遅れだし、船乗りなぞは荒くれのマッチョで、ワシのような繊細で瞑想的な者とは違う感じがしたのだ。そこで訂正。
『ここ最近、絵日記の内容が理論めいているのは、夏の個展に向けて描いている絵の技術も表現もずいぶん向上しているので、言葉がその感性に追いつこうと遊んでいるんだと思う。
 今までの作品は大衆芸術とかポップとか言われる部類だった。招き猫や猫という囲いの中で、鎖国した江戸時代のように、着物の裏にデザインして楽しんでいた。しかし今、開国し、一人宇宙に向かっているような気分の作品なのだ。一秒一秒が未知の体験。興味は尽きないし楽しいが不安と恐怖、死と紙一重。そんなマイナスな気分を一掃するため、身の回りに纏う広大な宇宙をきちんと知的に分析しなければならない。それが理論となっている。どこへゆくかは定かでないが、今のところハッとするような新発見の連続であることは確かだ』

2017年1月13日金曜日

[5861] 大海原

ここ最近、絵日記の内容が理論めいているのは、夏の個展に向けて描いている絵の技術も表現もずいぶん向上しているので、言葉がその感性に追いつこうと遊んでいるんだと思う。
 今までの作品は大衆芸術とかポップとか言われる部類だったのに、今は一人大海原を航海でもしているような気分の作品なのだ。目の前は初めての海、危険だし楽しいし一秒一秒が未知の興奮、広がる風景を言葉で確かめ、ここの岩礁を避けてとか、嵐の用心とか、間違いのないように舵を取らねばならない。どこへゆくかは定かでないが、いろいろと新発見があるのは確かだ。

2017年1月12日木曜日

[5860] 透明なスケール&ウェイト論

●透明なスケール&ウェイト論
 今の自分を本来の自分ではなく、本来の自分の投影だと思って、人は前に進むことができる。本来の自分のスケール&ウェイトが今思っているようなものではないことになる。常がなく投影の連続であるので、この方向が時間といえる。
 人は僕の作品を見て、僕という人間をこういう人だと判断する。人はその投影されたものを、その人と思い込む。僕らはその人の本来ではなく、投影図を見ている。投影図であるということは全てのスケール&ウェイトが仮のものであるということになる。本来の自分とは、基本的にスケール&ウェイトが大きかろうが小さかろうが、厳密に言えばスケール&ウェイトとは無関係にある。ならばスケール&ウェイトは存在しないと言ってもあながち間違いではない。スケール&ウェイトが存在しないなら、マクロの宇宙とミクロの素粒子が同じでもあっても差し支えない。宇宙と分子のビジュアルが似ているのはこのせいかもしれない。人がとてつもなく大きなもののビジュアルと、とてつもなく小さなもののビジュアルを、同じように理論構築してしまうのは、己の本来があのようなビジュアルと関係があるからだろう。

2017年1月11日水曜日

[5859] 逆転好き

『もりわじん』から『もとわじん』にしたとき気付いた。
変わったのは一文字、『り』が『と』に。
この文字を繋げば『りと』になる。
つまり僕の干支であり今年の干支の『とり』。
その逆から読んだ文字なのだ。
これもついでだから逆転の発想として喜ぼう。

2017年1月10日火曜日

[5858] 未知、知るべ

猫の仏像を作ったとき「罰当たるぞ」と言われた。
 この社会にはやってはいけないことや言ってはいけないことが多い。でもよくよく考えて見ると、そのほとんどのやってはいけないことの理由が意味不明だったり、単に縁起悪いからとか、迷信のような要素で禁止されているものが多い。だからまだまだ身近な分野でやるべき新しいことはたくさんあるように思う。
 あるアーティストは言葉から新しい可能性を提出している辞書作品を発表した。言葉は毎年増えていると思う。では例えば「あ」と「ぴ」と「へ」を並べた「あぴへ」という言葉に対応する何かしらはあるだろうか? こんな組み合わせで言葉を並べてみると、対象化されていない言葉や状態に出会ってない言葉が無尽蔵にある。このことは実は僕らが感じ取っている既知の世界はミクロほど小さいということだろう。
 僕は狭い世界で汲々として少ないエサを奪い合って生きる方法ではなく、新しい美味そうな「あぴへ」があるんではと、それを描こうと一歩前に出てみた。するとマクロな空間が目の前に現れた。エサだらけだったのだ。
 既知は未知への道標(未知知るべ)であって、還るべき所ではない気がした。


2017年1月9日月曜日

[5857] 禅問答

都会と田舎の二極論を書いて、あとで気付いた。そういえば僕の小説『自由自在堂』の中に「あなたはなぜ東京に住んでいるのですか?」という問いがあって、その返答を模索するシーンがある。その返答が他人の言葉ではなく、本当に自分の言葉なのかが問われる問いだ。禅問答のようなもので、あの小説のいたるところにそのような問いがある。この本は小説にもなっているけど、時代設定もある過去にしてあるが、時代に関係無く、主旨は『己を観る』に導く。
 では「なぜ東京に住む?」とう問いだけど、「なぜ山形?」「なぜ外国?」でも同じことだ。自分は小説を書きながら小説の中でこの問いに答えようとする。そこでの方向は、「基本的に都会と田舎の分断は意味のないバカな話なのだ」が心の深層にあるということだ。

2017年1月8日日曜日

[5856] 死体

気色の悪い夢を見た。女性の死体を借りてきて、それに彫刻をしている自分。
 一昼夜彫刻をやり、なかなかいい作品が完成した。まだ暗い早朝、自分の作品を眺めながら、ハッと、この死体は何だ? どこから手に入れたのだろう? これどうしよう? 彫刻のことで頭がいっぱいだったので、その前の記憶がない。外は雨が降っている。目の前には海がある。死体を海に捨てようか、松林に埋めようか、切り刻もうか、と考えたが、それは犯罪だ。死体遺棄だ。ここはちゃんと警察に自首しようと思った。しかし今のこの状況をどう説明すればいいのだろう? この状況を理解できる他人がいるだろうか? どう説明しても無理な気がする。映画ならどうにか面白くできるが、現実では質の悪い変態だ。シャレで変態と呼ばれても面白いが、マジな変態はマズい。あー、どうしよう‥‥
 ここで目が覚めて、はたと気付いた。なるほど、昨日の絵の不出来が解った。ここ数日掛けて完成した大きな絵を、僕の最大の理解者であるSSに見せたら、感動がない。何がマズいのかどう考えても解らない。でも自分も少しだけ何かマズいと感じていたのは確かだ。それがこの夢のおかげで解ったのだ。マジな変態はマズいのだ。マジな変態とはマトモなやつがなるもので、融通がなく、可愛くなく、死体のようなもの。マトモがやるザレゴトは死体に施した彫刻のようなものだ。僕は透明な道を少々見失い、可愛くもない既知のマトモを描いてしまったようだ。遺棄ではなく破棄しよう。


2017年1月7日土曜日

[5855] 透明な二極論

透明な二極論
:自分は二十数年前、猫の仏像作品を世に提出し、過去の招き猫の民芸品と一緒に、これから未来まで続くだろう猫界の土台を築いたものの、ここ最近、この猫界が面倒になっていた。自分を守る砦のような猫界であるが、その砦が檻に見えてきて窮屈になっていたのだ。そこで現れたのが猫とは無縁のノリタケの森ギャラリー。担当の方に「猫のもりわじんではなく、もりわじんを全面的に出してください」と言われ、スーッと檻が消え、青空が見えた。まるで芋虫からチョウになったような心地良さだった。しかし芋虫からチョウになる喩えはいいが、芋虫である猫界や自分を育ててくれた親や故郷を侮り、浮き足立って舞いながら、都会でお金や地位や名声などの表層だけ追うようになっても、『地に足がついてない』とは『空しい』ということだ、それを心底感じるだろう。芋虫の食っていたキャベツの美味しさや、空を憧れた当時の気持ちを邪険にすべきではないようにも思う。チョウが卵を産むのはあいも変わらずキャベツの上だ。キャベツという地上もチョウの舞う空も、父と母がいて自分が生まれたように、二つあってこその自分だ。故郷と都会の間に、バカとリコウの間に、金持ちと貧乏の間に、内と外の間に、冷たさと暖かさの間に、右と左の間に、強さと弱さの間に、生と死の間に、二極の狭間や隙間にあるだろう既成の価値基準を無にする透明な道を探求しよう。
(写真:『薬猫神様』長野県大嶋山瑠璃寺所蔵)

2017年1月6日金曜日

[5854] 蒔絵筆

蒔絵筆を使うアーティストは、見ていて神経がすり減るような感じがする。
自分には到底無理、面倒だと思っていたが、自分の絵にそのような場面があったので、細い蒔絵筆を持って、スーッと長いうねるような線を、ゆっくり慎重に引いてみた。
まだ誰も踏んでない、雪が降り積もったばかりの、緩やかな斜面を、スキーでもスノボーでもなく、地面から少し浮いているような感覚で、風を感じながら、ゆっくり滑り降りてゆく。
心地良いと感じた。

2017年1月5日木曜日

[5853] 不意

チョコビッチはとてつもなく可愛いのだが、あいも変わらずいじめっ子だ。一番ひどいのはぐっすりと寝ているイゴを咬む。寝ている不意をつくなんて、とんでもない悪だ。そこでひっぱたいてやろうとすると、いけないことだと解っているようで、ヘラヘラ逃げて、隠れてタバコを吸っている。
 そこでワシも考えた。チョコビッチがイゴを咬む前に、のんびり毛繕いしている所をひっぱたいてやった。
「えっ? エーーー、なんで? この人、変」
 おまえと同じに不意をついたのだ、バカめ! でもチョコはいくらひっぱたいても、どうってことない妙な猫なのだ。まったく意に介せず全てを忘れ、いつものようにワシの布団に入ってくる。そこでチョコはワシの頭をザリザリ舐める。痛い。不意をつかれたのだ。

2017年1月4日水曜日

[5852] 透明なセンス論

絵を描くとは、無地のキャンバスに線や色をつけて図を描くことである。昔の絵描きたちは何も描かれていない『地』と、何かを描いた『図』の関係に興味を抱いた。『地』と『図』の関係を人間に当てはめると、『地』は生まれつきの性格や本性のことを言い、『図』とは備わった知識、経歴、地位、権威など本性を覆う衣装のようなものだ。人は『地』のままでずいぶん美しいのだが、この社会では『図』を纏って生きなければならない。そこで人は『図』の上に『図』をと、どんどん装飾を加えつづけた。いつの間にか『地』が隠れ『図』が『地』の台頭であると勘違いするようになった。今は本当の『地』の魅力を見失いつつある。
 このような『図』の上に『図』を塗り重ねる方向を『プラス』とする。夜に厚化粧と装飾に身を包み酩酊し、朝に深い眠りについたのでは『地』が見えない。舞台上の建物がいくらそれらしくリアルに描かれても、やはり数日限りのハリボテで骨(地)はない。これではますます『地』が蔑ろにされてゆく。
 そこで重要なポイントが『図』のこれ以上の『プラス』ではなく、反対の『マイナス』だ。『プラス』の過剰に気付き『マイナス』に移行して『ゼロ(透明・無我)』に向かう。これら一連の行為が伴う感覚をいいセンスと言う。これはプラス・プラスと膨らむ方向ではないので、逆転の発想でもある。このセンスで絵を描くことで、『地』と『図』のバランスが保てる。いいセンスとはこの落ち着いたバランスで、いくら興奮しても、いくら青ざめても整う呼吸法みたいなものだ。静かに吐いてー、吸ってー‥‥

2017年1月3日火曜日

[5851] 透明な教育論

若い子や隣国だけでなく、日本のオヤジもおばちゃんも礼儀知らずや馴れ馴れしさや自己中が多い。
 それらをシンプルに心の汚れと呼ぼう。
 これは知識の有る無しではなく、センスがないということである。センスは磨けば光るもので、センスがあると言われないのは汚れているからである。
 センスを磨くとは、心の汚れに気付くことで、気付けば汚れは消える。本来なら人はその心の汚れを他人から指摘されるのではなく、自分ではたと気付き、一人で学びセンスのいい人間に成長するしかない。ところがなかなか人はそれに気付かず、落ち込んだり感情的になったりして負のスパイラルに陥り、どんどん汚れてゆく。このままでは人は将来、邪険にされる汚れた醜い爺婆になって、若者に蹴られて命を落とし兼ねない。
 とりあえず今年が干支で生まれ直しのワシは『もとわじん』となり、多くの人の中で気付きながら汚れを落とし、透明な道を歩みながら透明な絵を描く。そこで汚れが他から染み移らないように、時に気になった汚れに対しては汚れを洗う、つまり削除する。人はそれを飲み込み、自分を顧み、大きな気付きを得、新たな『元誰それ』になって、笑顔で社会に再び踏み出でよう。
 人はこの夏に個展会場で『もとわじん』の透明な絵の空間に立ち、過去の汚れた栄光で生きぬこうしていた『もりわじん』が汚れた古い服を脱ぎ捨て『もとわじん』に成ったことから、深い『もり』の湧き水が、一般的な汚れも人工的な浄化という汚染も避け、ゆっくりと慎重に一年を掛けて流れた、その緩やかな溜まりの中で泳ぎはしゃぐ全裸の子らのように、『もと』のままの新鮮な湧き水を心身に浴び、真の心地良さを体験するだろう。センスが身に染みる瞬間である。
 それが『もとわじん』の透明な道であったことを再認識し、それぞれも透明な道を歩もう。

2017年1月2日月曜日

[5850] 名前

どうせ生まれ直すんなら、
夏の個展は、
「えっ? これ、ワジン作なの?」
と言われるぐらい、
全部が全部、
まったく新しいものを展示したい。
ついでに名前も変えちゃおう。
『もとわじん』ってのはどうだろう。

2017年1月1日日曜日

[5849] 心の痛み

去年の12/31は奥歯の歯茎が腫れて痛くて、
食事が美味しくない。
まったく新年から歯痛に悩まされるのか。
『一年の計は元旦にあり』と言うから、
ワシ、来年は痛い思いするのだろうか。
ところが明けて元旦、
植物に水やっている間に、
歯茎の腫れがどんどん引いてゆく。
おおっ! 
ってことは今年はだんだん良くなるってことだ。
うざいことや面倒なことは心の痛みだ。
心を鬼にして、
一つ一つ消してゆこうと思う。
夏の個展頃にはメチャいい感じになっているだろう。