●雪
連日雪掻き
雪とは毎日毎日
オレの片割れが
上から雪を降らし
毎日毎日
下の片割れのオレが
雪掻きをする
上の口から飯食って
下の口からうんこするような
生きているってことだろう
もりわじん絵日記
2025年2月10日月曜日
2025年2月9日日曜日
[8706] ザブ
●ザブ
バリ島の民族音楽にケチャがある。ケチャは元々宗教的儀式舞踏であった。ドイツ人画家がこれを聞いて、失っては勿体無いと一般向けの舞踏劇として広く知れるものにした。おかげで私も知ることになり好きでバリ島まで行ってしまった。
そこで私事だけど、私が招き猫を作った当時はそば屋にある常滑の招き猫だけで、招き猫が廃れつつあった時代だ。そこに猫仏像を作ったらあれよあれよと復活し産業になってしまった。
そして今、坐禅についても、こんなすごいものが廃れては勿体ない。知れば知るほど坐れば坐るほどすんごいものだ。
そこで昨日は坐禅をやり始めた友達が坐禅布団を使ってないらしいので誕生プレゼントに坐布をあげた。
2025年2月8日土曜日
[8705] 怖れ
●怖れ
未分化とは「まだ分化しておらず発展するまでに至ってないこと」らしい。
細胞の未分化は分化していないから自己複製能力があり、他の細胞になることができる。可能性がいっぱいあるのが未分化だ。なら未熟も未完もそうだ。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とかモーツァルトの未完成交響曲とかなぜか心に残る。そして「未」が付く『未来』もその仲間だろう。未来があるなら他の細胞からの道があると言うことだろう。私は60歳の時、粘土以外の絵で他の道に挑戦した。そして『ペリペリ→わの図→坐禅』を発見し、その道を歩いている。未だ至ってはいない。
人はいつまでも未熟だし未来があるのだから、まだ発展するまでに至っていない。至ってないなら自ら可能性を終わりにする必要はない。何かに怯えたり死ぬのが怖いと思うのは未熟な子供のように可能性があるということなのだろうと思う。
私の婆ちゃんが80歳ぐらいの時、日の当たる縁側で草履を編んでいた。あいも変わらず時間を持て余していた20代の私はタバコを吸いながら婆ちゃんになんとなく死について話しかけた。婆ちゃんは「この歳になると死ぬのは怖くない」と言った。ふとタバコの火種が灰皿に入らず飛んで婆ちゃんの手についた。瞬間、婆ちゃんが叫んだ「アチっ! 死ぬかと思った」と。
この事件を私はただの笑い話にしていたが、今、はぁー、なるほど、死とはそういうものなんだとわかったような、、、未だ至ってないけど。
2025年2月7日金曜日
[8704] 未知
●未知
SNSに長時間、身を委ねていると囚われの身になる。
坐禅は囚われない身になる。
『囚われの身』は自分以外の夢や幻を見ている。
『囚われない身』が創造だ。
幻想から離れた庭いじりや雪掻きなどが
何ものにも囚われない創造の源だ。
そこはまだ未知なのだ。
未知だから夢や幻に逃げたくなる気持ちもわからないではない。
でも留まれば未知は道になる。
2025年2月6日木曜日
[8703] 引きずられない
●引きずられない
坐禅をするといろんな『思い』が流れてゆく。これを放っておく。普段の生活の中でもこの『思い』は流れていて、いつもは『思い』に引きずり回されている。『思い』とは抑圧や抵抗、快楽、家族、仕事、老い、病気、死などだ。坐禅はこの『思い』を放っておけるので『思い』に引きずられない。引きずられないに引きずられていることを悟る。
2025年2月5日水曜日
[8702] 猫展
●猫展
第27回 来る福招き猫展
2025年2月14日から26日まで
福岡県 ジュンク堂書店 福岡店
MARUZENギャラリー
27年続いているんですね。
ずいぶん昔に行ったけど、
ノロウイルスにかかってゲロッパだった。。
よろしくです。
2025年2月4日火曜日
[8701] 脚
●脚
ネットで語る人の脚は見えない。
知識主体で脚がない。
幽霊には脚がない。
幽霊は地上に戻りたいのに戻れない奴だ。
ネット諸君よ、見捨てた脚を取り戻そう。
風に乗る鳥にも蝶にも脚はある。
足で稼げ。
ちなみに私は前足で稼いでいる。