●NY
手で思い出した。旅行記『無我の意図』にも書いたこと。
20代後半、世田谷美術館で友達が個展をしていると言うので自転車で出かけた。見終わり暇だし地下の喫茶店でコーヒー飲みながら自分の手をスケッチしていた。そこに「スケッチを見せてください」と誰かが。見たら髪の毛は七三分けでこのクソ暑いのにスーツ姿に黒縁メガネの薄っぺらなガッカリ兄ちゃん、あ〜つまらん人間だ。こんな奴、生かしておいてもロクなことがないと思い、僕はカバンの中の拳銃を取り出し彼の額を撃った。ボコッと音がして彼は崩れた。それでも起き上がり「NYで展覧会しませんか?」と。ほんとですか!と薄っぺらの薄っぺらい言葉に喜ぶわけがない、かと言って無碍にするほど冷たくもない、断るほど冒険心がないわけでもない。でトントン拍子に事は運び、やることになった。手で得た手柄だね。
2026年1月31日土曜日
[9062] NY
2026年1月30日金曜日
[9061] 名手
●名手
スポーツもアートも身体を手を使う。サッカーは後ろ手ね。これらは身体が主役だ。書道では同じ文字は二度書けない。どんな文字も良いし良くない。だから正否はない。パソコンも手を使うがどれも同じ突起で同じ文字が出る。『A』が柔らかい突起で『B』がゴツゴツしているなんてことはない。場所が違うだけ。だから手を使うものの頭が優位だ。間違った文章は手ではなく頭のせいだ。頭は間違う。手は間違わない。手はいつだって上手で下手で名手だ。
2026年1月29日木曜日
[9060] 手と眼
●手と眼
人間は手で飯を食う。子供の頃、ナイフとフォークで食事している人間を初めて見た時、歯に金属がぶつかって嫌な感覚も一緒に食っている感性が劣る野蛮人だなぁと思った。日本人は箸を器用に使う。だから手はどんな動物よりも他の国のどんな人間よりも高度な技術や感覚を持ち合わせている。箸でも他の国の箸は金属だったり日本の箸の持つ繊細さはない。
さて上からいきなり下の話。うんこは自分の手で拭く。インドは右手で食事をし左手でうんこを拭く。とにかく人は生きるための入り口から出口まで自分の手を使う。それから指紋は己独自のもの。触ったものは見ているかのように何かがわかる。己独自の理解なのだ。眼と同じような役目をする身体の部位は他にないだろう。手は世界の何もかもを観ている。千手観音の手には眼がある。触れば観える。手は宇宙を観ている。
2026年1月28日水曜日
[9059] 勝手
●勝手
なぜ手か?
世間一般的には「頭を使う」やつが偉いような雰囲気がある。人間は頭が身体を使っていると思っているのだ。だから社会でも知的労働が上で肉体労働が使われているような感じになる。これは勘違いだ。
私は「手を使う」ことを勧める。勘違いを払拭するためだ。身体を使う人はスポーツ選手以上に自分の職業に自信を持つべきだね。自慢も卑下もなく。なぜならそれらは頭の所業だからだ。
さて頭は身体を使っているのではなく、頭は知識に使われているのだ。その知識も過去の知識や概念で古びたものだ。昔のものをコレクションしているような頭なのだ。『温故知新』という良い言葉もあるが大抵の人は温故だけ。知新に行くには手が重要。ふと思い出した。誰かが私に「あの方は張り子民芸を一万点収集しているんだよ」と自慢げに言っていた。それがどうした? 私は自分の手で新しい民芸を一万点以上作っている。ほら、いつだって今の手が勝つのだ。だから『勝手』と言う。手は自由そのもの。私は自由勝手気ままなのだ。
2026年1月27日火曜日
[9058] 自受用三昧
●自受用三昧
久しぶりにサム君に会った。彼はイギリス生まれで40前半。もはや日本人もやらない杵と臼で餅つきを生業の一つとする。雪が降り積もるとひとり一時間歩いて雪山に入りじっとイノシシを待つ。罠猟もやるが、イメージするだけでも孤高の『忍び猟』が好きらしい。一度に四頭を得たことがあり、雪山を一時間以上かけて運び降りてくる。「クマと会ったらどうするの?」と聞いたら「撃つ」と一言。
そんな彼は詩を編みセーターを編む。編んだセーターは家族にもあげる。時に毛糸の色で悩んだりする。世界の覇権国やら纏っているものを全て切り、自らが編んだセーターを着る。彼はいつも身体を手を使って生きている。『自受用三昧』とはこのことだろうと思った。
2026年1月26日月曜日
[9057] ロープ
●ロープ
益子に展示したロープ作品が売れた
ガハハ、あんたは偉い!
嬉しありがた
自分はロープに頼りぶら下がっているとする
ロープが切れたら自分の命はない
ロープがあるから自分がある
ならばロープも自分だ
ロープを繋いでいる木も自分だ
木を生かしている地面も大気も水も太陽も自分だ
太陽に生かされている何もかもが自分だ
*でも落ちないように
2026年1月25日日曜日
[9056] 数
●数
私は数を数える癖がある。歩いていても歩数を数えるし、何かが散らばっていたら数える。メダカなど見ているといつの間にか数えている。早いしかなり正確だ。
坐禅の数息法をしてみる。まず初めに腹式呼吸で、吐いて吸って「1」、これを10まで数えるのだが雑念の洪水がやってきて数えられない。いつの間にか10になっていたり、15、16と数えていたり全く集中してない。なぜできない?
今朝気づいた。1と2の間に深い深い数字が宇宙ほどある。そう小数点以下があるのだ。例えば家から碁点温泉までは歩いてすぐだが、温泉までの道のりには目立った家々や草木だけでなく、いろんな微妙な色合いや日々同じではなくなんやかんや宇宙ほど小数点以下があるのだ。1、2、3と数字だけと決めてかかれば10まではそう難しくはない。しかし実際1と2の間は永遠、そう1と2は繋がってないのだ。まるで円周率だ。数は数えれば増えるのだが『○』なんだ。ゼロだから数えたいし、ゼロだから数えられない。
2026年1月24日土曜日
2026年1月23日金曜日
[9054] 十二男
●十二男
野良の子猫が足に絡まってきてとても懐こいのでしょうがなく飼うことになった。名前は十二番目に飼う猫だから『十二男(ジュニオ)』。あまりに元気に暴れるので、昨日玉取った。黒猫なのだが毛の根本は白、毛を剃った股が真っ白、変なの? 最後の玉エキスが身体中に染み渡っているのか、犬のように雪と戯れる。人間でも元気は必要だがガンガン照っている太陽のようなら暑苦しい。元気なくても瞑想的に黄昏ていて己を出さず夕日が似合う奴は感じがいい。
2026年1月22日木曜日
2026年1月21日水曜日
[9052] 大寒
●大寒
雪です
厚手の服を着、ストーブに薪焚べる
冷たい手はお湯につけるのが心地いい
こうやって冬は冬に身も心も包まれる
心身が夏するわけではなく冬する
冬に南に旅行するのは冬のおかげだ
ここの冬は地球の運行に沿って冬してる
冬に対して文句言う奴はいない
いたら頭がオカシイ奴だ
身体は冬しているんだから
冬は地球からも太陽系からも
宇宙からも祝福されている
冬は冬以外を忘れて冬に徹底する
2026年1月20日火曜日
[9051] 千手観音
●千手観音
他人任せ、欲任せ
これらの中心は頭だ
頭にとって都合がいいのだ
しかし死にたくなるのも頭
身体は死ぬ気なんてさらさらないのに
だから頭も身体に任せれば知恵が湧く
それには身体の手を使うこと
頭では物は掴めないし食べることもできない
頭が考えて何かした時はいつも『手遅れ』
頭と身体の間にズレや不満が生じる
手はした時がその時でズレはない
考えるんじゃない感じるんでもない
手を使うんだ!
だから千手観音
2026年1月19日月曜日
[9050] 一と多
●一と多
百観音や龍安寺石庭などを考察していて思う。
私には『おみくじ百覧会』『神仏百覧会』
『スウォスス曼荼羅50』『誕生日猫366』など
数に関するものが多い。
これらの作品は一セットだ。
一が多で多が一なのだ。
自が世界全体で世界全体が自。
人は数の多さを競う。
競っている時は一でも多でもなく部分だ。
2026年1月18日日曜日
[9049] 楽しみ
●楽しみ
腹が減っているからなんでも美味しい
知らないからなんでも知ることが楽しい
この余裕や楽しみがあるから
日々『満たされている』
『足りない』からこそ
『満たされている』がわかる
不完璧だからこそ全完璧
鳥は鳥で完璧、猫は猫で完璧
若者は若者で完璧
老人は老人で完璧
あなたはあなたで完璧
2026年1月17日土曜日
[9048] 優る
●優る
瀧安寺の石庭が示しているのは
この世に完璧はないということだ
AIもこの世のものだから完璧ではない
例えば鳥も猫もやはり完璧ではない
だから鳥と猫のどちらかが
優っているわけではない
ならば人間とAIのどちらかが
優っていることもない

















































