2023年11月3日金曜日

[8342] 規律と自由

●規律と自由

 型に嵌める規律は人の心の創造力を塞いでしまう。ところで一般的に社会人は規律の中にいて規律に抵抗しているので自由のなんたるかを分からず自由を身勝手だと勘違いしてしまうところがある。金を得て好き勝手やることだったり平気で山にゴミ捨てたりSNSなどに面白半分に悪さを投稿する。これでは規律という囲いと身勝手の対立が起こる。社会はますます分断する。

 前にも言ったが個人主義は英語で『individualism』で「バラバラでない」というバラバラの否定系だ。日本語では『個人主義』という一つの肯定系の単語になる。基本が否定と肯定ではかなり大きな違いだ。私の考えでは否定系が的を射ている。「規律だ」・「自由だ」では個々人が対決してしまうが、個人の中で「規律ではない、自由でもない」なら対立はない。それには坐禅が必要だ。

 アートは個人的な創造と破壊、言葉を変えれば規律と自由の関係性でもある。私はアートから『わ』の図の発見、そこから坐禅に至った。坐禅をしているとわかるのだが、坐禅に規律は必要だ。調身調息の規律があるから調心になり自由に到達する。社会から逸脱したような無意味な坐禅にこそ規律と自由があり、坐禅をすることによって身に付く。現社会の上や内部からの変革や現社会に反発したところからの変革では、社会からも二元論からも脱出できない。これでは個人に真の自由は望めない。自由は思考対決するような思慮で得られるものではない。二元論を超えた坐禅を日常の根底に据えることが先決だ。坐禅はあらゆる反対概念を思慮の前段階で調心する。



 

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