●底力と権力
ホームセンターに釘を買いに行った。ガテン系の父子がやってきて子供が走り回り商品のネームプレートを床に散らばした。父親は直せとも言わないし直そうともしない。
ところで知人の大ちゃんは華奢で無駄肉がなく少欲で飲んだビール缶を洗う礼儀正しい無口な青年だ。仕事は公園や公共施設の造園や草刈りなどをしている。世間にはそのような場所が山ほどあって仕事の尽きることがない。しかもこれらをやらないと社会に麻痺が出る。社会の基礎である底辺の仕事だ。大ちゃんの目を見るとその小さな目には目力どころか深い『底力』を感じる。
『底力』は草刈りや手仕事や歩いたり体を動かしたり坐禅することで得る。人はこのリアルな『底力』を得たいが底辺の仕事にそれがあることに気づかない。先程の父子もその一人だろう。
例えば『底力』は国で言えば地域だ。地域社会で言えばマルシェ(市場)だ。舞台や映画で言えば役者やダンサーだ。人体で言えば首から下だ。頭ではないから沈黙が重要になる。沈黙によって幻である思考は鎮まり邪魔だった覆いが取り除かれ本来の『底力』が浮上する。
人は権力を欲する。それは『底力』ではない。人は権力を欲しがるようになって底辺を無視し本来の『底力』を忘れてしまう。いくら権力を駆使しても何も満たされないのは権力が『底力』の傀儡だからだ。傀儡だから高慢で不遜で小賢しく底辺から貪る。社会は『底力』によって成り立つのであって権力で成り立つと思うのは思い違いだ。
『底力』の大ちゃんは権力の傀儡社会を良いとも悪いとも思ってない。権力は底辺の上での競り合いだし、底辺を土台にした積み重ねや構築だ。底辺が根源なのだ。権力は底辺の上の空なのだ。根っこだからこそ上の空に左右されることはない。
モンステラの新芽が出ていた!
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