●心
相続をきっかけに『心』が浮上した。
何よりも大事な『心』を忘れていたようだ。
あまりに当たり前すぎて見逃していたような気がする。
ある時期『心』は「精神」という言葉で理解するようになった。
それから『心』が見えなくなったのだろう。
全ての答えなのに。
たぶん日本人は『心』と言えばわかる人種だ。
それは肉体に対比した精神ではない。
感情の部類のハートでもない。
思考であるマインドでもない。
「心ある」人と言われれば嬉しい。
「無心」というのは素敵なものだ。
『心』は「ある・ない」を最高のものとして受け入れる。
こんな素晴らしい言葉は他にないように思う。
ただ軽々しく使えば邪心になると思う。
もりわじん絵日記
2026年9月2日水曜日
[9276] 心
2026年9月1日火曜日
[9275] 良心の不在
●良心の不在
両親を亡くし、私は「良心の不在」を目の当たりにした。相続は家族内の問題であり、なかなか表には出ない。とくに田舎では、家族の恥、とりわけ金銭にまつわる話を他人にさらすことは避けられる。被害を受けても声を上げにくい。すると、傷ついた側が悪いかのように扱われ、した側が正しいという空気さえ生まれてしまう。そんな考えが広がるのは、あまりに危うい。
今はカード決済が当たり前になり、値段を「負ける」という感覚が見えにくくなった。これからの世代は、「負けるって何だろう。昔はそんなことがあったのか」と思うかもしれない。負けることを認めなければ、勝つことだけが価値になる。そうなると、勝つためなら何をしてもよい、勝てば官軍だ、という考えに傾く。『負けるが勝ち』はもう死語になってしまったのだろうか。
9年前に父を亡くし、今回、母を亡くした。多くの親は、子どもたちが苦労しないようにとお金を残す。子どもが3人いれば、3等分する。それが平等心ではないだろうか。
父は野心家で、義侠心があり、芸術への魂を持っていた。そして「森」という名を残すことにこだわっていた。私も69歳になり、それを残すことに少し関心を持つようになった。ちょうどその頃、面白い建造物の作品案が降ってきた。実現には資金がいると思っていた矢先、大げさに言えば、私は相続がゼロだった。
母は本当に一文なしだったのだろうか。貧しかったのだろうか。私は、いつの間にか妙な争いに巻き込まれ、負けてしまったのだ。
私はかつて『手から産む』という作品をつくった。手を動かして生計を立てることに誇りを持っている。作ったものを欲しいと言ってくれる人がいて、その対価で暮らす。私にとっては、とても単純で自然な流れだ。
作品が多く売れれば、そのお金を生活空間や新しい制作に注ぐ。本を読み、庭仕事をし、真理を探究し、新作に挑戦するために時間とお金を使う。持ち家もあるが、私にとっては「家猫」という名の巨大な作品だ。引きこもりがちな性格なので、旅行にもほとんど行かない。贅沢には興味がない。消費社会の価値観からは、少しずれている。
自然の中に身を置いているときのほうが、真理のようなものが降りてくる。だから私は、世間の金銭にまつわるアレコレにはほとんど無知だ。だから負けた。
世の中には、多くの被害を受けた人がいる。恨み、つらみ、悔しさ、嘆き、悲しみ。これまで私は、庭とアトリエにこもり、世間とあまり関わらずに生きてきた。けれど今、その人たちの嘆きが少しだけわかる。
だからといって、恨みやつらみに囚われたくはない。しかし、忘れることも簡単ではない。感情が沸騰することもある。それが人間だ。なぜなら、「勝った者が正しい」という誤った考えが広がれば、「金・詭弁・権力」が正しいものとして扱われる。それが人々の生き方の中心になってしまう。
だが、はっきり言う。「金・詭弁・権力」は、人の中心ではない。
世間には為政者がいる。彼らの中には「金・詭弁・権力」が中心だと思い込み、勝ち誇る者もいる。大衆もまた、そのおこぼれにあずかろうとして、口車に乗せられる。国から町へ、村へ、そして家庭へ。そんな思想が浸透していく。
私は、家族の中にまで浸透したその思想に負かされた。両親を亡くして、良心の不在を知った。そしてある意味心の拠り所を失った。
中心とは、読んで字のごとく「心の中」にある。「心」とは、初心、良心、慈悲心、平等心のことだ。なかでも初心は大切だ。初心は、何にも侵されず、何にも汚されていない。山奥の湧き水のようなものだ。
初心を忘れたとき、人は「金・詭弁・権力」の下に心を置いてしまう。本来、心は広大であり、人間の浅はかな「金・詭弁・権力」などの下には付かない。しかしこの社会では心は小さく扱われ、権力への依存心や商売心へと心は変わっていく。それが良心の不在だ。
会社や税といった仕組みが、人を支えるためのものではなく、人を惑わせる主体になってしまう。
主体は人である。その人の心である。中心に心があり、会社や税はその周辺にあるべきだ。税や会社が先にあって、人がその奴隷になるのではない。
私が望むのは、家族や身近な知人にまで入り込んだ、人の心を蝕む汚れを取り除く。社会の仕組みや税という巧みな制度も、いったん心の中心から外す。そして、子供心のような初心で、もう一度ものを見ることだ。
そうなれば金や社会に疎い私のような人間でも誰でも、物事をゼロから考えることはできる。そこから考えなければ、身近な人たちの心は初心を忘れ、邪悪さに染まり、飲めない水のように濁ったままになってしまうだろう。
世間から離れ、自然の中に身を置いてきたからこそ、私は人間の汚れた思考に違和感を覚えた。
これが今回、私に降ってきた智慧である。
『負けるが勝ち』。
2026年8月31日月曜日
2026年8月30日日曜日
[9273] 茶筌
●茶筌
茶道2号が人手に渡った。
茶道絵は書道・華道・茶道の三部作の一つ。
道具が美しい。
自分では十職に入ってない使い捨ての茶筌が興味深い。
春の東京での個展で1号は人手に渡ったので2号を描いた。
それも同じじゃつまらないから茶筌を反対にした。
写真がそれ。
実におしゃれで美しい空間に飾っていただいた。
ありがとう。
もう一枚描こうっと。
2026年8月29日土曜日
[9272] 誕生日
●誕生日
昨日は私の69歳の誕生日だった。
リンクに行って顔見知りの会う人会う人に「今日は俺の誕生日だから、なんかくれ!」と言い回った。
誰も、なんもくれない。ケチ。金銭的ケチでもあるが、シャレや創造で返せよ!
唯一アフリカに住んでいたまやちゃんがせんべい3枚くれた。
クソジジィの戯れだろうと相手してくれる世界を心身に共有している美しい人だ。
些細なツッコミありがとう。
山ベーの喬一くんがいたので「なんかくれ!」と言ったら「催促するような人にはあげない」と躾され、老いぼれは働き盛りの若者にいじめられたと思い、しょげて家に帰った。
次の日の今朝、家の玄関にみかん箱が置いてあった。開けたら南国の果物がいっぱい!
手紙が添えてあり「誕生日おめでとうございます。わじんさんからの数々の助言をいただき、今の自分があります。69歳、ロック魂でこれからも突き進んでください。 喬一」とあった。すごい!
これ、もしかして夢?
2026年8月28日金曜日
[9271] 仏像
●仏像
AIは頭がよく理解するが坐禅はできない。
これが身体を持ったロボットなら。
身体があるから坐禅できるし頭いいから理解もする。
最終的には全てを理解し黙する仏像のようになるだろう。
私はそれを創っているのだ、ガハハハ…
2026年8月27日木曜日
[9270] ケチ
●ケチ
秘宝作品を所蔵する吉野さんから「裸体画を運ぶのに、車一回で間に合いますか?」と連絡がきた。思わず笑ってしまった。裸体画といっても木枠に張った大きな絵ではなく、素描だからペランペランの紙がいっぱいあるだけ。
吉野さんのようなケチでない態度を見ると、こちらもケチでない態度を示したくなり、大盤振る舞いをしたくなる。僕は「目には目を」という言葉を、復讐や悪いことに使うのではなく、こういう善いことに使いたい。
嬉しさには嬉しさ、ありがたさにはありがたさ、施しには施しを。
ケチな人は、いつも「自分は損をしている」「彼らは得している」と思っている。そして、何かしら得をしなければ気持ちが落ち着かない。どんなに儲けても、他人と比べて「自分は損をしている」と思ってしまうからいつまでも報われない。
これは誰にでもあることだ。だから、ケチな人とケチでない人がはっきり分かれているわけではない。金持ちか貧乏かも関係ない。
ケチとは、お金の問題ではなく、心の問題だ。
ケチ臭さが滲み出てしまうと、何をしても「ケチの策略ではないか」と思われてしまう。これは気をつけたほうがいい。
しかしケチでも心配ない。ケチな心の裏には、きっと寛大さがあるはずだ。その寛大さを使えばいい。それを使えるような考え方を学び、それを自然に使えるような生活に移っていけばいい。
飯が食えるだけで幸せ。この世知辛い世の中、笑いがあるだけで得しているようなもの。
そんなおおらかさを根っこに据えるのだ。



















