●手
デュシャンは視覚網膜アートを否定し観念のアートを提出した、と言われる。そういう言葉に乗せられて作らない頭ばかりのアーティストが増えてきた。逆に視覚アートもたくさん蔓延っている。視覚か観念かではない、どっちも首から上だ。ところでデュシャンの遺作、あいも変わらず下ネタだが首から下の手を使ったものだ。墓碑銘に「死ぬのはいつも他人ばかり」と。他人とは視覚と観念だ。今で言うならネットのインスタと言論、そんな他人の情報が死なのだ。
もりわじん絵日記
2026年2月12日木曜日
[9074] 手
2026年2月11日水曜日
[9073] 大ガラス
●大ガラス
去年暮れ、サトリを展示してから彼岸の悲願『猫でない』作品を次々制作している。
デュシャンに『大ガラス』というのがある。ポーの「大鴉」に掛けた大きなガラスの作品だ。彼の作品『泉』は多分ゴミ捨て場で拾って持ってきた便器だから、それとはまるで正反対で職人の高技術を多様に注ぎ込んだ金掛けた作品だ。どっちもイタズラ好きな天の邪鬼ぽい。『泉』は便器、『大ガラス』には「‥裸にされた花嫁‥」などのサブタイトルをつけているから同じ下ネタだ。デュシャンは一般的に現代美術の先駆者と言われているから、目の上のタンコブだ。いずれデュシャンを自分の中でクリアーしておかなければと思っていた。
実は30歳の頃、そんなものを作るのに土が必要だからと山形の実家で制作していたが、途中で猫作家になって忙しくなってしまい忘れていたのだ。あの時はペリペリがなかったし、今なら土がある山形に住んでいる。これで完璧にできる。雪が溶けて春になったら庭の土にこれの種を蒔こうと思う。
2026年2月10日火曜日
[9072] 政治
●政治
僕の兄も弟も自民好きだから二人とも文句を言うが元気だ。兄弟が元気なのは良いことだ。自民嫌いな心優しい知人たちは沈んでいる。知人たちが元気ないのは悲しいことだ。
親を面倒見る意識の強い長男や親離れができない末っ子の意識が膨らみ、親離れする子達の夢の対象がこの社会に見つからない。さてこの世は陰と陽でできている。じゃぁ坐禅だ。陰陽超えた真新しい自己を発見するのだ。
2026年2月9日月曜日
2026年2月8日日曜日
2026年2月7日土曜日
[9069] 無関係
●無関係
龍安寺石庭のコケに色をつけようか悩んでいたが塗ったらいい感じになった。
水槽は放っておくとコケに覆われ緑色になる。メダカは水槽のガラスや鉢についたコケや藻を食べる。貝はコケ以外にメダカのふんやカスや死体を食べる。それぞれ生き物には役割があるようだ。ところでコケやメダカや貝が育ったり死んだりする。これらは彼らには無関係だ。無関係がこの水槽の中心にあって細部まで行き渡っていることで全体生命が育まれている。もし自分の役割がコロコロ変わる世間にないなら無理してコロコロころされる必要はない。広大な無関係を探求すればいい。
2026年2月6日金曜日
[9068] 住処
●住処
七十二候の最後の一候がこの間の2月3日までの『鶏始乳 』だ。意味は「冬の間卵を産まなかった鶏が春の気配を感じ卵を産むようになる」、そして2月4日から新しい一候が始まる。
ふと思った。人も何もかもが鶏と同じで春の気配を感じている。この気配こそ至福感だ。言葉や数字を並べた科学的思考ではこの気配は不思量だ。わからないから不安を持つ。科学や法は完全ではない。
さて人は季節という住処にいる。年齢という住処にいる。ここから外に出ることはない。どこにいたっていつだってこの住処の気配を充分感じている。ならば無理に不安のもとである思考を進めず、今ここに留まり、ゆっくり深呼吸をして己のその思考を眺めてみればいい。何も起きてないし何も起ころうともしていないことがわかる。今を遮るものが何も無い。ただ至福感に包まれる。これで元の住処に戻っている。
























