●湧き水
水道水でコーヒーを淹れたりご飯を炊いたりする。
水道水にはカルキが入っている。
これがとりあえず安全と言われる社会だ。
カルキ抜きのすごいフィルターやすごい炊飯器を使用する。
これが安全な社会の進歩発展だ。
それでも水は水道水だ。
「湧き水で淹れたコーヒーは美味いね」と人は言う。
人を楽しませたいなら、もし湧き水があるなら
湧き水で淹れたコーヒーを出す。
なんの策略もない。
恩を売るのでもない。
湧き水が心だ。
心とはただそれだけ。
もりわじん絵日記
2026年9月6日日曜日
[9280] 湧き水
2026年9月5日土曜日
[9279] 心を取り戻す
●心を取り戻す
弟から電話で「彼は封建的なんだ」と。
封建的を調べた。
「上下関係を重視し個人の自由や権利を抑え込もうとする古い考え方」
あらら、面倒臭いね。
しかしそれは社会ではそんな言葉があるだろうが、ここでは大袈裟だ。
彼は単なる自分勝手。
勝手になる前があることに気づいてないだけ。
上下関係:皆平等だし。
抑えこむ:相手が可哀想だし。
古い考え:諸行無常だし。
これは般若心経に書いてあるようなことだ。
父親は死ぬ前に般若心経を写経していた。
母親はそれをそらで言えてた。
私も倣ってそらで言える。
とにかく私利私欲になる前に心があるのだ。
まずは「心を取り戻す」だね。
そこが初心であって清浄な湧き水だ。
どうせなら湧き水でコーヒーが飲みたいだろう。
上下関係でコーヒーの味がわかるか。
抑え込まれてコーヒーが飲めるか。
古いコーヒーはうまいのか。
2026年9月4日金曜日
2026年9月3日木曜日
[9277] 誠意
●誠意
『災い転じて福となす』
『負けるが勝ち』
この二つは同じ意味だ。
『災い』も『負ける』も今回、私に降りかかってきた。
人は大抵、災いに遭ったり負けると心折れる。
私は今回負けた(世間の災いから見れば些細なことだ)
しかし心身ともに初心に行き着いた。
これで福となり勝つ。
だからこれらの諺が身に沁みる。
これは負け惜しみではなく、実際、近いうちに彼と談判するつもりだ。
彼はバカじゃないと思うし、心ないわけじゃない。
話せば分かるだろう。
基本、社会の仕組みは人を支えるものであって、人を陥れるものではない。
初心の後のものは、全て、鉋で削って、福が現れる(添付作品)
シンプル、それだけのことだ。
ふとドラマ『北の国から』の「誠意って何かね?」というシーンを思い出した。
*誠意の一般的な意味は
「私利私欲を捨て、嘘偽りなく、相手の立場に立って、向き合う真心ある態度だ」
2026年9月2日水曜日
[9276] 心
●心
相続をきっかけに『心』が浮上した。
何よりも大事な『心』を忘れていたようだ。
あまりに当たり前すぎて見逃していたような気がする。
ある時期『心』は「精神」という言葉で理解するようになった。
それから『心』が見えなくなったのだろう。
全ての答えなのに。
たぶん日本人は『心』と言えばわかる人種だ。
それは肉体に対比した精神ではない。
感情の部類のハートでもない。
思考であるマインドでもない。
「心ある」人と言われれば嬉しい。
「無心」というのは素敵なものだ。
『心』は「ある・ない」を最高のものとして受け入れる。
こんな素晴らしい言葉は他にないように思う。
ただ軽々しく使えば邪心になると思う。
2026年9月1日火曜日
[9275] 良心の不在
●良心の不在
両親を亡くし、私は「良心の不在」を目の当たりにした。相続は家族内の問題であり、なかなか表には出ない。とくに田舎では、家族の恥、とりわけ金銭にまつわる話を他人にさらすことは避けられる。被害を受けても声を上げにくい。すると、傷ついた側が悪いかのように扱われ、した側が正しいという空気さえ生まれてしまう。そんな考えが広がるのは、あまりに危うい。
今はカード決済が当たり前になり、値段を「負ける」という感覚が見えにくくなった。これからの世代は、「負けるって何だろう。昔はそんなことがあったのか」と思うかもしれない。負けることを認めなければ、勝つことだけが価値になる。そうなると、勝つためなら何をしてもよい、勝てば官軍だ、という考えに傾く。『負けるが勝ち』はもう死語になってしまったのだろうか。
9年前に父を亡くし、今回、母を亡くした。多くの親は、子どもたちが苦労しないようにとお金を残す。子どもが3人いれば、3等分する。それが平等心ではないだろうか。
父は野心家で、義侠心があり、芸術への魂を持っていた。そして「森」という名を残すことにこだわっていた。私も69歳になり、それを残すことに少し関心を持つようになった。ちょうどその頃、面白い建造物の作品案が降ってきた。実現には資金がいると思っていた矢先、大げさに言えば、私は相続がゼロだった。
母は本当に一文なしだったのだろうか。貧しかったのだろうか。私は、いつの間にか妙な争いに巻き込まれ、負けてしまったのだ。
私はかつて『手から産む』という作品をつくった。手を動かして生計を立てることに誇りを持っている。作ったものを欲しいと言ってくれる人がいて、その対価で暮らす。私にとっては、とても単純で自然な流れだ。
作品が多く売れれば、そのお金を生活空間や新しい制作に注ぐ。本を読み、庭仕事をし、真理を探究し、新作に挑戦するために時間とお金を使う。持ち家もあるが、私にとっては「家猫」という名の巨大な作品だ。引きこもりがちな性格なので、旅行にはほとんど行かない。贅沢には興味がない。消費社会の価値観からは、少しずれている。
自然の中に身を置いているときのほうが、真理のようなものが降りてくる。だから私は、世間の金銭にまつわるアレコレにはほとんど無知だ。だから負けた。
世の中には、多くの被害を受けた人がいる。恨み、つらみ、悔しさ、嘆き、悲しみ。これまで私は、庭とアトリエにこもり、世間とあまり関わらずに生きてきた。けれど今、その人たちの嘆きが少しだけわかる。
だからといって、恨みやつらみに囚われたくはない。しかし、忘れることも簡単ではない。感情が沸騰することもある。それが人間だ。なぜなら、「勝った者が正しい」という誤った考えが広がれば、「金・詭弁・権力」が正しいものとして扱われる。それが人々の生き方の中心になってしまう。
だが、はっきり言う。「金・詭弁・権力」は、人の中心ではない。
世間には為政者がいる。彼らの中には「金・詭弁・権力」が中心だと思い込み、勝ち誇る者もいる。大衆もまた、そのおこぼれにあずかろうとして、口車に乗せられる。国から町へ、村へ、そして家庭へ。そんな思想が浸透していく。
私は、家族の中にまで浸透したその思想に負かされた。両親を亡くして、良心の不在を知った。そしてある意味心の拠り所を失った。
中心とは、読んで字のごとく「心の中」にある。「心」とは、初心、良心、慈悲心、平等心のことだ。なかでも初心は大切だ。初心は、何にも侵されず、何にも汚されていない。山奥の湧き水のようなものだ。
初心を忘れたとき、人は「金・詭弁・権力」の下に心を置いてしまう。本来、心は広大であり、人間の浅はかな「金・詭弁・権力」などの下には付かない。しかしこの社会では心は小さく扱われ、権力への依存心や商売心へと変わっていく。それが良心の不在だ。
税といった仕組みが、人を支えるためのものではなく、人を惑わせる主体になってしまう。
主体は人である。その人の心である。中心に心があり、会社や税はその周辺にあるべきだ。税が先にあって、人がその社会の奴隷になるのではない。
私が示すべきは、家族や身近な知人にまで入り込んだ、人の心を蝕む汚れを取り除く。社会の仕組みや税という巧みな制度も、いったん心の中心から外す。そして、子供心のような初心で、もう一度ものを見ることだ。
そうなれば金や社会に疎い私のような人間でも誰でも、物事をゼロから考えることはできる。そこから考えなければ、身近な人たちの心は初心を忘れ、邪悪さに染まり、飲めない水のように濁ったままになってしまうだろう。
世間から離れ、自然の中に身を置いてきたからこそ、私は人間の汚れた思考に違和感を覚えた。
これが今回、私に降ってきた智慧である。
『負けるが勝ち』。

















