2017年2月28日火曜日

[5907] 次元

●次元
 絵は今のところ宿命のように感じるので、売れる売れないは考えてない。とにかく描く。当然中身は良い悪い、きれい汚い、うまいへた、可愛い醜い、気味不気味、そのような二元のどちらにも偏らず進んでいる。このような二元である世間の欲望という次元では、売れることがかなり大事だ。お金だね。でもそれを超え、より高い次元を意識しているのだ。
 ところで最近、粘土作品が売れるし注文も多い。雅叙園の展示会も入ったし。絵などに集中したから猫粘土ファンに無視されるかと思ったら、逆だ。
 そこでこのことを自分に都合良く考察してみた。これは世間次元が上の次元に挑戦している僕を応援してくれているのだ。例えばずいぶん前に僕はネットで良い絵を発見した。若い絵描きだったので応援したくなり、いろんな絵の道具類をあげた。絵は突き進めてゆくと絵の道具類にかなりのお金がかかるからだ。そういった意味でも応援は嬉しい。人間の意識は皆繋がっていて、一部が本気に自由な解放に向かうなら全体も自由に向かいたい。そこで何かしらの応援という意識が出るのだと思う。みんなで戦争に向かうような二元よりはいい全体だ。
 次元ついでに、男が女に振り向いてほしければ金稼ぎより一段高い次元の『詩人』になれ。高い次元に移行することで自ずと世間次元は満たされるだろう。

2017年2月27日月曜日

[5906] 霊感

●霊感
 人は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感で外界を感知する。それを超えた感覚として第六感がある。霊感とか直感などだ。もともと人は第六感を持っていたのだが、楽して文明に頼り切ってしまい、そのセンスを弱めてしまった。ニワトリのように飛べない次元に落ちたようなもんだ。依頼心は霊感を失い、視野を狭めるってことだろう。
 2001年、『ギャラリー猫町』ができ、個展ができるとなったので嬉しくって面白い作品ができた。そこでタイトルを第六感の一段上の『セブン・センス』と銘打って個展を開いた。これが終わったあと、次の個展はもっとぶっ飛んで『エイト・センス』だなと決めていたが、いつの間にか忘れてしまっていた。でも考えてみれば二十年以上もやっていた猫作品は縁起物が主体だ。末広がりの『八』を既にやっていたようだ。
 今回は『ノリタケの森ギャラリー』という真っ白い20m×8mでできるというので、また嬉しくなって、籠って絵に打ち込んで、うまいこと究めた。ふと思った。『究める』とは『穴』に『九』と書く。依頼心を捨て、つまり誰にも頼らず、穴蔵に籠って『九』までゆく。できた絵は『ナイン・センス』の次元にまで登る。
 そして今年夏8/29~9/3、穴蔵から出てとうとう発表する、とうだから『十』。前向きなプラス(+)になった。
 皆さん、最近はマイナスの多い社会、ここで楽しくプラスに生きる五感を磨く為にも、個展会場で生の絵を見て、自分の中の第六感以上の霊性意識を復活させてください。ニワトリから空飛ぶトリへ戻ろう。

2017年2月26日日曜日

[5905] ここ

●ここ
『ここ』が大事だ。
 僕は平面や立体を作って展示するので、空間がとても気になる。
『ここ』は x y z で表すことができる。この3つの座標で『ここ』が明確になるのだが、問題は『ここ』がどこかだ。もしかしたら牢屋の中かもしれない、問題の多い社会かもしれない。身動きできない世界かもしれない。よく観察すればいたるところに壁が見え、どこもかしこも不自由なところかもしれない。敵がいて戦っているところかもしれない。
 そこで『ここ』をはっきりと自由な空間だと言えるところにしたくなる。必要なのは囲われている『ここ』ではなく、自由な『ここ』なのだ。『ここ』を表すのに最低限 x y z が必要だ。 x y z があってこその『ここ』なのに、x だけでは行ったり来たり右往左往しているだけで、上がない。振らつく x だけでは信用はない、だから将来が不安だ。不信用も不安も不自由の要素だ。たとえ大文字 X になって目立ったとしてもダメだ。それは虚栄心だ。
 僕が今までやっていた猫の作品は巨大化して神様までなったが、やはり元は小さな x だ。位置が定まらず吹っ飛んでしまう。
 今回、僕はやっと y を仕上げた。次は z だ。


2017年2月25日土曜日

[5904] 引き蘢り

●引き籠り若者
 若者の親の悩み。
「息子が引き籠って家から出ない、やりたいことが解らない、就職先がない」
 一つ解らないのは、なぜ月給取りにさせようとするのだろう。親が子供に望むのは月給取りしかないのだろうか? 僕のところで修行したいと来た若者の親が社会保険はあるのかとか言っていた。あるわけがない。帰れ、帰れ!
 若者は会社に入ったら会社という色に染まらなければならない。上下関係もある。家にいれば染まることも上下もないから楽だ。引き籠りや自立できない若者ら、彼らはもう社会人だ。ただ会社ではなく甘い家というところに就職したのだ。彼らは弱虫だから、もし会社に入ったら一生奴隷だということを知っているのだ。居心地のいいところからわざわざ奴隷になるやつはいない。
 そこで一考。自立できない若者は将来など解らない小さなお店の手伝いに行けばいい。手伝いならそこの店の色に染まることはない。給料もメシ代ぐらいでいいだろう。親のような最低限の人間関係があるだけで、面倒くさい上下関係はない。奴隷どころか自分が仕切っている大将のようなものだ。店長と気が合えば、そりゃあ楽しい職場だし、小さいところだから、なんとかしてやろうという責任感がつくし、自信もつく。旅と同じで人間形成にはスゴく良い。アイデアだせば己ブランドができたりもする。そこに可愛い娘さんがお客で来たら恋も芽生える。良い事尽くめが商店だ。
 実は引き蘢り系の僕は大学卒業後、小説『自由自在堂』に書いたように画材屋の自在堂に就職したようなものだった。そこは僕に12年間もメシを食わせてくれた。その後そこから飛び立ち、自分ブランドのネコの店を作ったわけだ。
 そしてこれから僕はそのネコの店からも飛び出る。

2017年2月24日金曜日

[5903] 他のせい

●他のせい
 親のせい、経済力が無いせい、才能が無いせい、時間が無いせい、社会のせい、上のせい、あいつのせいとか、自分が怠っていることを棚に上げ「他のせい」にする。これで一時凌ぎできるが、この「他のせい」が身に付くと、歳取った時にもまた「歳のせい」にして自分を伸ばすことをしない。他に頼っているから他のせいにする。いつまでも自分を伸ばすことなしで、そのうち死ぬ。死んで自分が伸びないのは「死んだせい」だ。
 そこで思った。
『伸びないのは「他のせい」』と『伸びないのは「死んだせい」』は同じだ。
 つまり「他のせい」=「死んだせい」だ。
「他」=「死」なのだ。
 『自分』はいつ生きるのやら。
 自分を伸ばすのに焦ってはいけない。すぐにも利益や名を出すなどの結果を焦ってはいけない。それでは結果の為に生きることになる。結果はラスト、『死』だもの。死の為に生きることはない。
 とにかく僕は自分の絵をもっと伸ばそうと思っている。

2017年2月23日木曜日

[5902] 焦り

●焦り
 個展会場の風景がイメージできると、そこに配置する絵を焦って描きたくなる。ところが雪掻きやらがあるので、暫く絵描きができない。そうすると焦っていた気持ちが少し落ち着いて、客観的に自分を眺めはじめる。するともっと良い会場イメージが出てきて、絵も前に進む。焦って行動しなくて良かったなぁと思う。
 20代の頃は焦っていたんだなぁとつくづく思う。すぐにもお金にしたいし、すぐにも名を出したい。気が焦っているのでちょっとしたイメージで突っ走る。のんびり描くことなどできない。下手は味だと勘違いする。そのとき持っている僅かな技術や濁った感性だけで一攫千金を狙うようなもので、じっくり勉強し技術を伸ばし感性を磨くことなどしない。悪い芽は伸びるのが早く、焦りは成長し、いかにして儲けるか有名になるかの方法論だけが先行する。簡単な儲け話しが横行するようになり、それに釣られる。『3ヶ月で英語が話せるようになる』なんてのもその一例だ。たまたま能力があったのか、そのような方法論だけで有名になったりお金を得た人は、もちろんその後も自分を磨くことをせず、その虚飾を守ることに必死になり、目立つことだけが作品だと勘違いし、とうとう本当の自分を見失う。
 今、僕は雪のおかげで歩くスピードでじっくり技術と感性を磨いている。
 あ〜、これって『ウサギとカメ』の話だね。

2017年2月22日水曜日

[5901] 日々

●日々
 日々、僕は歳を取っている。昨日より今日、今日より明日、確実に身体の機能が少しずつ衰えている。人はこれに抵抗して若返ろうなどとする。しかしよく考えたら生まれたときからずっと日々歳を取っているのだ。そういうものなのだ。大自然界には測り知れないわけがあるからこうなっているのだろう。なぜに歳を取ることに歎く必要があろうか? 明日を昨日のようにすることはないだろう。せっかくやって来る未来を、わざわざ過ぎた昔にすることはないだろう。せっかく出てきた太陽を押さえることはないだろう。明日や明後日がいったい何がどうなのかを、きちんと観察してゆきたいと思う。
 思いもよらない今まで描いたことのないまったく新しい絵の大作ができた。すこぶる嬉しい日だ。僕は日々成長している。
 添付は正義の味方『ウ・コッケイ男』です。日々、僕の中のバカも成長している。


2017年2月21日火曜日

[5900] 脱出

●脱出
 僕は猫を神仏にした『猫神様』を発表し、プロデューサーしてくれる人と出会い、世間に広く認められる作家になった。いろんな作家も加わり、猫業界のような世界を作り、たくさんの猫ファンと一緒に、日本だけでなく海外までビッグニャーンしていった。
 ところで猫神様作って少し経った頃、プロデューサーが「猫神様を超えるものが見たい」と言った。その後、僕はその言葉に捕われ、これでもかこれでもかと新しい作品を提出してきた。初期を超える次のヒット曲が欲しいミュージシャンや次回作を期待される小説家のようだった。僕は家まで猫にして世界一大きな夫婦招き猫を作った。それでも猫神様を超えたようには思えなかった。そのうち「猫神様を超える」というその言葉も過去の話になり忘れてしまっていた。
 ところが天災は忘れた時にやって来るように、ひょいとやって来た。
 この夏、猫神様を超えるものを発表できると思う。
 ふと思った。プロデューサーも猫かぶりから脱出したかったのだ。
 たぶん多くの人も、今、自分が被っているものから脱出したいんだと思う。


2017年2月20日月曜日

[5899] 二つの時間

●二つの時間
 過去というのは乗っている車の後ろを見るようなもので、より遠くの後ろがより過去だ。未来というのはフロントガラスの前方にある。たぶん時間というのはこういう考えで、これが常識になっている。
 つまり『解らない未来は自分の外からやって来る』のだ。
 本当だろうか? 物事には左右や上下があるように必ず反対や逆がある。ただの逆は争いになるのでつまらないが、逆転の発想というのはそれらを止揚する。
 そこで逆転の発想からのもう一つの時間。
 過去というのは自分の中から出ていったもの。未来は自分の内にあり、これから出るものだ。
 つまり『解らない未来は自分の内にある』のだ。
 言葉を変えると自分の内にある『解らないもの』こそが未来なのだ。解るものはもやは過去なのだ。
 解る慣れたもので身を守りながらも、自己の内部の解らない未知のことに挑戦するのだ。
 まあ、今そんな絵を描いている。

2017年2月19日日曜日

[5898] 本音

●本音
 この添付作品(60×45㎝)は、今、福岡の『ジュンク堂書店福岡店:B1 MARUZEN ギャラリー』に展示してます。
 竹久夢二の作品に『黒船屋』という女性が黒猫を抱いている名作があり、そこから僕が本歌取りし、逆転の発想で黒猫が女性を抱いている風にした。できたとき、けっこう喜びが大きかった。この画風の横並びの絵は数十点は出るだろう。でもおそらく描いても喜びはない。これをこれまでの猫作品の流れの最終作品とした。このあと横ではなく、羽化して縦方向に飛び始めたのだ。
 この絵は一見シャレが利いていて面白いが、実は自分の本音を語っている。この絵の女性を自分に見立てれば、僕は「猫に捕われている」という意味合いだ。それも一寸先は黒い闇のような猫にだ。この時の自分の精神状態を表しているのだろう。そういった意味では正直ないい絵だ。
 この絵を最後に僕は捕われの身から脱出することになる。

催事名:ジュンク堂書店福岡店「第19回、来る福、招き猫展」
会場:ジュンク堂書店福岡店 B1F MARUZEN ギャラリー
会期:2017年 2月18日(土)~ 3月 4日(土)
営業時間:10:00~21:00(最終日16:00閉廊)
住所:福岡市中央区天神1ー10ー13 メディアモール天神

2017年2月18日土曜日

[5897] 完成:Perfection

●完成:Perfection 
 とうとうやりました。アートの極みをとうとうやったのです。
 雪を見ながらこれまで描いた絵をなんとなく思い出し、次に描く絵を頭でなぞっていたら、単独作品ではなく全体的なビジョンがはっきり見えてきた。それは、あーー、なんと! 不可能と思っていた極みをやっていたのだ! 小説『自由自在堂』の中でアートの極み論を文字にした。自分で定めた極み論ではあったが、あまりに高度な目標であった。僕ごときには無理だなと思っていた。しかしそれを現実にしていたのだ。思いもよらないことに『オレかぶり』とはまったく違う方向から扉は開かれていたのだ。一世一代の絵の勝負に出て良かったとつくづく思う。しかしまだ半分、頭の中、これは全体像を見せないといけない。忙しくなるな。夏まで精神力と体力を保たねば。
 たまたまやって来た父親にこのことを話したら「とうとう狂ったな」と言われた。でも絵を見せたら「くれ」だって。90歳で片足あの世に突っ込んでいるのに、なぜ? この絵を持つことで自分が極みの感覚を得たというその事実を後世に残したいのだろうか。それともこの絵そのものがこの世とあの世の極みで、父親がこの感覚を持って、あの世で神様に会う。「おーー、オヌシ、得たな。褒美じゃ、上等な天国でのんびりせい!」と免罪符の役目をするのかも。
 今まで応援してくれた方々、七面倒くさい我が日記を読んでくれた方々、あなた方は見る目があった! 偉い! 今度の夏の名古屋の個展、極めた一番最初の絵だ。宇宙に飛び立つロケットだ。
 さあー、宇宙へ出て、無重力を遊びまくろう!

2017年2月17日金曜日

[5896] ダイヤモンドの原石

●ダイヤモンドの原石
 猫かぶりに不自由を感じ、脱して『オレかぶり』したら、これが面白かった。
 では『オレ』ってなんだろう?
 たぶん磨かれてないダイヤモンドの原石だと思う。磨いてないから汚い、醜い、絵にならないと無視していた。そんな醜いものより可愛い猫でもかぶろうと。
 ノリタケの白い空間での個展の話もきたし、猫かぶっていてもしょうがない、と目が覚めた。
 今、絵が充実していると同時に、絵日記では僕の内部をえぐって言葉にしている。振り返って見ると、このような言葉の話、20代にたくさんしたような気がする。たぶん今の僕の話し相手は小説『自由自在堂』の主人公『芹沢君』なんだろう。あの頃こそダイヤモンドの原石だと思う。世の中知ったようで無知な生意気でツッパった時代だ。ダイヤモンドの原石があったという事実を小説として書いて、もはや終わった過去かと思っていた。ところが、20年以上の身を隠す猫かぶりを経て、今、僕はあの小説の続きを今度は小説ではなく現実に描き始めている。僕はダイヤモンドの原石を磨き始めているのだ。
 ところで生まれ変わったら何になりたいと聞かれたアンディ・ウォーホルは「ダイヤモンド」と答えた。

2017年2月16日木曜日

[5895] 喩え

●喩え
 一週間ぶりのタブロー絵描き。雪掻きがあるし、展示会があるのでそれ用の作品制作なんやかんやで絵描きは絵日記用の線描だけだった。この線描がなかなか面白くなってきていてタブローにもいい影響が出ている。
 タブローだけど、今日は初キャンバスに挑戦。四角いキャンバスがありきたりで不自由になったから自分でデザインして作ったのだ。
 どうなることかと思ったが思った以上にいい。なんてゆうか、ん〜、喩えを書こうと思ったが、いい喩えが思いつかない。たぶん喩えようがあれば、いつかどこかで見たことのあるものだろうから、喩えようがないなら、それは今までにどこにもないものなのだろう。


2017年2月15日水曜日

[5894] 上の壁

●上の壁
 去年、粘土で『オレかぶり』という作品を作ってみた。いつものシャレのつもりだったが不思議と新鮮な感動を得た。それは楽しいシャレが一つ増えただけだと思っていた。普通ならこれで終わりで、普段の作品に戻る筈。ところが今にして思えば、真意は忘れたが、この『オレかぶり』が気になったのだろう。その頃はかなり絵にハマっていて自分の絵を模索中だったので『オレかぶり』を何の気無しに絵にしてみた。変わりもののシャレの絵が一枚できただけだった。それほどの感動はなかった。その後は絵の素材やタッチなどを吟味しいろんな絵の実験をし、だんだん自分のオリジナリティが見えてきた。暫くして『オレかぶり』の二枚目を描いてみた。粘土よりいいものができてしまった。するとどうだろう、『オレかぶり』の粘土も最初の絵も、もはや自分にとっては当たり前になってしまったのだ。それから三枚目と続き、もう僕がしているのは『猫かぶり』でもなく『オレかぶり』でもなくなっていた。ステージが上がったのだ。
 壁というものは目の前にあるものかと思っていたが上にもあったようだ。その上の壁を突き抜けたのだ。いつもは腕を世界に広げるように横並びの作品を作って個展を開いていた。それは少しはスパイラル的に上にも昇っていたことだろう。でも今は真直ぐ宇宙に向かうロケットのように上に向かっている。そのうち眼下に国の争いがドングリの背比べのように見えることだろう。
 絵のタイトル『あ〜、あれが上の壁ね』

2017年2月14日火曜日

[5893] 一人称

●一人称
 去年まで僕は自分のことを『ワシ』という一人称を使っていた。
 『ワシ』というのは、イメージとしていろいろあるが、例えば老僧のような人が使いそうだ。何もかも解って悟って、寺に籠って、庶民の心を把握し、彼らが迷って事件や事故など起こさぬように、気を配って道を示す。自分は解っていると思い込んでいるが、年の功によって増えた知識で見えた虚妄に騙されていることもある、本当は歳取った口の達者な無知かもしれない。
 絵を真剣に描くようになってから、そんな自分の無知に遠慮していただきたくなったようで、老僧の『ワシ』から、日本語にはたくさんの一人称があるけど、若輩の『僕』にした。
 これから個展する会場は馴れ合いのない初めてところ、『ワシ』では相手に失礼、同時に澄んだ空気が濁る。新鮮な絵まで濁ってしまう。今までの小さな世界の中で、似非老僧がおだてられて乗せられて、個展をしたところで、自分の中の自惚れ屋やスノッブが威張るだけで、なにも生まれない。そこに創造はない。見る客層も今までの流れの中では川の魚だけが魚であって海の魚は魚でないようなもの、井の中の蛙大海を知らず、それでは広がりがない。小説『自由自在堂』の『天才の章』に書いた詩のごとく、部分ではなく全体、アラユルコトへ向かおうと思う。そこで二十代、格好つけタバコの煙に自分を誤摩化し創造のまっただ中にいた若きアーティスト、生意気だが控えめ、無学ゆえ学ぶために、復活、生まれ直し、今、『僕』という青年の精神を内部から呼び戻し、実行実践に向かう。それが『僕』の一人旅、一人称だ。
 絵はインド・バラナシーにいる25歳の粋な撲。


2017年2月13日月曜日

[5892] 二重螺旋

●二重螺旋
 いかにここに居てここに居ないかが重要だ。
『ここに居る』とは自分が主体であって、社会や国や地球、大宇宙まで含むような主体。だから超主体だ。気にして欲しい、ちやほやして欲しい、エゴイストで傲慢、オレオレオレ。
『ここに居ない』とは自分が客体だ。とことん見当たらない。ホコリやチリ、無に等しいくらいの自分。だから超客体だ。恐れ入ります、感謝します。自然に溶け込んでいて、私は風、空気、ナイナイナイ。
 人はこれら二つの自分が大きな全体のうねりの中を進んでいるように感じる。まるで意識にも二重螺旋構造があるよう。呼吸や潮の満干、微細で巨大。
 今、撲は『猫かぶり』と『オレかぶり』との二重螺旋で絡み合いうねりながら荒波を超えて進んでいる、楽しく。
 (写真は世界初のスノーサーフィンチューブライディング)

2017年2月12日日曜日

[5891] 地球ベッド

●地球ベッド
 小説『自由自在堂』のタイトルにしたように、僕にとっては『自由自在』が最も興味深い。自由自在になればどこへでもゆけるし、大抵の物は手に入る。これは金があってもできることだが、金を稼ぐのは面倒だし、金など誰かの手に渡ってしまえば自分のものではない。奪い合いとか不安、政治経済がつきまとう。そんな面倒な金など無視して、何にもつきまとわれることのないどこへでもゆける自由自在を編み出せばいいのだ。ではどうやって?
 撲は猫を作ったばかりでなく、猫を神仏にすることで、猫に関係するあらゆるところに行けるようになった。これは引き蘢り系の僕が自由自在になったようなもの。でもこれは確かにある種の自由だがほんの小さな自由で、いつものシングルベットがダブルベットになったみたいなもの、本物の自由自在ではない。なぜなら猫仏像は偶像崇拝でほぼ日本だけにしか通じない。少々風変わりな民族衣装だ。どこかの国の田舎の魔除けみたいなもの。では日本の文化を世界に広めたらと思ったが、今度は日本文化という屋根が邪魔で空も見えない窮屈なベッド。『猫かぶり』も『日本かぶり』も同じようなものなのだ。
 どうせ寝るならどこまで寝返り打っても何も邪魔しない、どこまでも上には青い空が見える広大無辺のベッド、それは夏目漱石のいう『草枕』だろう。地球がベッドだ。

2017年2月11日土曜日

[5890] ウソ考

●ウソ考
 約束したものの、面倒なので、ウソをついて約束を破る。するとウソをついた自分と良心の自分が戦い、心は葛藤する。この争いが長引いた時、ふと何かが浮上する。ウソをついた筈なのに、自分のウソとは違う『約束』という了解の裏に隠れていたウソらしきものが意識の表面に浮上するのだ。『約束』のほとんどは未来の安心や利益のために未来を過去で縛る不自由な決め事だ。その安心は仮の安心なわけだから本当の安心ではない。ウソと言っても過言ではない。約束を破るとはそのような狡賢いようなウソに対してウソをつくことだ。つまりマイナスにマイナスをかけたわけだ。
 あっ! −×−=+ 『正直』に出会ったようだ。
 守破離という言葉がある。
『守』、ウソから自分を守るため、
『破』、ウソを破り、
『離』、全てのウソから離れる。
 終には『正直』と出会う。
 これが『猫かぶり』から『オレかぶり』=『正直な絵』となったところの考察。今のところ撲の絵は正直まっしぐらです。

2017年2月10日金曜日

[5889] 歪み

●歪み
 あんまり若くして社会に出て有名や裕福になった者は歳取ってふやけちゃったりイマイチぱっとしなくなる。社会にエネルギーを吸い尽くされちゃうのかもしれない。会社では夢ある若いエネルギーが残業させられ、吸い取られ、時に自殺に追い込まれる。地方と国の関係では、地方が自分の土地を力ある国の目先の金にアヤ釣られ、最終的に地方の伝統も未来も新鮮な水も空気も失う。人間関係でも、あまりに親密な関係や馴れ合いはどちらかのエネルギーを吸い尽くすか、自己防御のためにいがみ合ったり、終には縁が切れ、災いの種になる。世の中は非情なものだ。国や会社や人との関係では馴れ合いが、進めべき本当の道を外し、身を滅ぼすきっかけになりやすい。
 『他』とは自分の別の一面であって、あまりに近づけば、くっ付いて、両面だったものが反面だけになる。反だらけ。反抗もしたくなるさ。やはり自と他には距離感が大事だ。地球に生命があるのはエネルギーの塊の太陽とちょうどいい距離にあるからだ。
 他との距離が近づき過ぎた時、自分の周りの時空に歪みを感じる筈だ。あまりに近づけば、興奮したり嬉しくなったり怒ったり辛くなったり、終には頑張ったりなどの歪みとして現れる。またはいつもの太陽の日の出から日の入りの時間感覚が乱れ、瞑想を失う。人と人には何もない透明な『間』が必要だ、『絵』が必要だ。

2017年2月9日木曜日

[5888] 年齢Ⅲ

●年齢Ⅲ:マンダラ
 たまに自分の好きな昔の画家の画集を見る。絵とその絵を描いた画家の年齢で画家がその時何を考えていたのかが解る。絵とはとても抽象的なものなのに、言葉以上にアラユルコトを語っている。だから好きな作家の絵それぞれに善し悪しはない。成長という歩みがあるだけだ。
 作品を善し悪しで見てる意見を聞くことがある。ほとんどの人は自分の好みで見たり求めたりするのは別にいいのだが、善し悪しまで判断するのは行き過ぎだ。善し悪しは個人の俗世の経験値による価値判断であり、信じるに値しない。善し悪しに縛られると大切なものを見失う。
 絵とは全体が精神内外のマンダラみたいなもので、見る人の選んだ作品によって、今、その人がマンダラ上のどこに居るかがおおよそ解る。自分の足元を確かめるにはとてもいい。絵を見るとは画家と観客のお互いが得体の知れない共通のマンダラの上に点と同時に全体として存在していることを確認できる。片や画家はそのマンダラを手探りで色や線でなぞりながら新たな広がりや細部空間を視覚的に明確にしていき、片や観客はその明確になった絵をなぞりながらより大きな空間マンダラと自分とがシンクロする一瞬を体感する。
 好きな画家の画集から、画家が今の自分の年齢の頃、どんな絵を描いていたのか、その前後がどんな絵だったのかを見てみるといい。いつもより自分のことが少し明確に解り豊かになれる。

2017年2月8日水曜日

[5887] 年齢Ⅱ

●年齢Ⅱ
 年齢の続き。
 人は生まれて死ぬまで、まあ80年生きるとする。普通に生きていれば、肉体はきちんと成長し、きちんと衰えて死ぬ。精神も同様に、きちんと成長し、きちんと衰えてパーになる。人は生きている間、ほとんど皆、肉体は同じような時期に陰毛が生え、同じような時期に盛る。五十肩なんて年齢と身体が一体であることを示している。精神も同じで、誰もが同じような時期に躓き、似たような壁にぶつかる。その年代年代で持つ悩みがあり、それぞれの脱出方法がある。大事なのは次のステップへの導き方があることだ。
 撲の小説『自由自在堂』の中に「三十七」という37歳を書いた章がある。この年齢近辺は大事だったので書いておいた。また世阿弥が書いた本、年齢と能楽の関係を花に喩えている『花伝書』、これは面白い。
「これを秘して伝ふ」。

2017年2月7日火曜日

[5886] 年齢

●年齢
 撲は人に歳を聞く。なんかあまり良いことではないらしいのだが、名前と同じくらいにコミュニケーションにはいいアイテムだと思う。
 なぜ良くないのだろう?
 たぶん若いからバカにされるとか、歳取っているから老いぼれ扱いされたりもあるけれど、一番は若さこそ魅力、それが前提で、二十歳過ぎたら歳より若く見られたい。だから本当の年齢は関係ないんだ、無視しようと言うことになったのだろう。
 年齢はすごく面白いのに。
 この年齢でこそ描ける絵がある。


2017年2月6日月曜日

[5885] 海

●海
 小田原は春のように暖かい。暖流のせいだろう。山に雪がないのを見ているとどこかの島に来たような気にさせられる。昨日は個展を見、絵描きの泰君のアトリエまで見せてもらった。60畳程あり天井高さが6m。今の自分のアトリエが30畳ほど天井高さも半分以下。泰君のアトリエが体感として10倍ぐらい広く感じる。天井に近いところなどそんなに使うこともないから、単に床面積はうちの倍なのに、人は体積を感じるのだろう。このぐらいの大きさの空間があればイメージも10倍に膨らみ動きもスムーズにいくだろうと思ったが、今の時期、山形にここのような春は絶対来ない。山形でこの広さがストーブで暖まった頃にはもう夜になって眠くなっていることだし、暖房費も尋常じゃないだろう。欲を言えばキリがない。
 今朝、急に海が見たくなった。道を歩いていきなり海が現れたときは、驚いて声を出してしまった。海、スゴい! うちの家の前を流れている最上川より大きかった。こんなでかい川(海)が家の前を流れていたらいい感じだろうなと思ったが、欲を言えばキリがない。心だけでもこの海になろう。

2017年2月5日日曜日

[5884] 巡り合わせ

●巡り合わせ
 小田原に行く。
 8年ほど前、まだ神奈川にいる頃、国外のアート展示会の写真をネットで見ていたら、会場の隅の方に小さく気になる絵が写っていた。あっ! この絵好きだなぁと思った。ネットでどうにか名前を探し出した。撲より20歳ぐらい若い30代前半の男性だった。彼の展示会があることを知り、出かけた。そして知り合いになった。自分の好きな絵を描くのでどうにか応援したいが、撲は人の絵を買うようなコレクター気質はない。そこで撲が若い頃使っていた油絵の絵の具や筆、キャンバスに木枠などの道具全てをあげた。軽トラ一台分ぐらいあったと思う。もう絵描きはしないと思ってたからだ。その後、彼はフランスに留学した。
 今、彼は小田原のできたばかりの会場で個展をやっている。じつはその会場で来年一緒に2人展をやる予定なのだ。会場視察も兼ねて久しぶりに彼の本物の絵を見にやってきた。
 絵描きを止めた時期があったことで彼と出会い、そして絵描きを復活させて一緒に展示会ができる。なかなか面白い妙な巡り合わせだと思った。

2017年2月4日土曜日

[5883] 魂

●魂
 ある小さな会社が誰からも頼まれていないのに、誰もできない世界最小の歯車を何年もかけ、お金もたくさんかけて作った。それはのちに世界に必要な技術だった。その会社の社長曰く。
「世界にないものを作らなければ意味がない。知恵と感性と経験がものを言う。職人の腕で言えば、60歳あたりは最も腕の立つ年代である」
 オオオ、なるほど、自分はもうすぐ60歳、そういうことだったのか。それで最近、絵がめちゃくちゃ充実しているのだろう。今のこの絵を20代や40代で描けと言われてもダメだったと思う。まさしく、この年齢、今なのだ。そして思う、魂を磨き続けてゆくことに終わりはないと。
 魂で思い出した。最近「三つ子の魂百まで」だから自分は変わらない、みたいな話を聞いた。変えたくない自分の意識を正当化する単なる言い訳だ。変わらないのは魂であって、その上に覆い被さった考えはいくらでも変えられる。それが魂を磨くということだろう。磨いた一歩先にその人だけの三つ子の魂が光り輝くまだ世界にない新しいものがある。
 魂とはダイヤモンドの原石のようなものだと思う。

2017年2月3日金曜日

[5882] 正直

●正直
 父親が久しぶりにやってきた。車の運転がヘタになったような気がする。
 父親は病院に行って来たらしく、医者に5月にひ孫が生まれるんだと言ったら、医者が「5月かー」と意味深な言葉を吐いたと言う。それで、もしかしたら自分は5月までもたないかもしれないと思い、撲に教えにきたのだ。
 そうか、夏の個展の絵は見れないかもしれない。じゃあ最近できた「オレかぶり」の絵の写真を見せた。どうせ見せてもトンチンカンだろうと思ったら、おっ! と興味ある顔をした。直感に響いた感じだった。なるほどこれはいい絵なんだと思った。そこで少し絵の説明をした。
 撲は二十年以上も猫を被ってきた。それはなんとなく正直じゃない気がしていた。それでその被り物を脱ごうと思った。でもそれを脱いだら、撲が誰だか分らない。そこで猫被りの上にオレを被ってみたんだ。今は売れるとか良いとか悪いとか余計な邪念は捨て、正直に描いているんだ。それがどんな絵よりも自分を生かすんだ。父親はニコニコして帰っていった。
 今、絵はどんどん進化しているが、やはり『オレかぶり』がきっかけでその後の道が示されたんだと思う。しかし『オレかぶり』ができたのはその前に『猫かぶり』があったからだ。そこがとても大事だ。
 だからこそオレなんだ。
 ではいったい誰が猫を被っていたのだろう?

2017年2月2日木曜日

[5881] サナギ現象

●サナギ現象
 外を作り中央に壁を作って内に籠る。まるで鎖国だ。そのためには外を嫌う必要があり、ものには良い点と悪い点があるにも拘らず、悪い点だけを殊更に取り上げ攻撃、どんどん内こそ最高という幻想を抱かせ、団結し群れ、ヒエラルキーが生まれ、情報操作し洗脳されたかもしれない民主主義の名の下、頂点には下々の僻や恨みなどの哀れな感情を浄化することすら解らない頑固で感情的で根拠のない「分った任しておけ」的『分る力』を持った親分的存在の者が君臨させられる。外は分けてしまった故に解らないので『分る力』を持った親分の心の不安や策略から出る舌先三寸、それは宇宙人は分らない恐いもののような想像、で戦争は起こせる。この構造は個人の思考の場合も同様で思考そのものが『分る力』でできているからだ。個人の場合は誰かの悪口を言ったりどこかの国の悪口を言って、同様の考えの仲間と群れる、がその『分る力』だ。『分る力』は『解る力』ではない。
 今の『分る力』の社会を良い意味で虫に喩えるならサナギの段階のような状態と思いたい。僕自身もこの社会に参加してないわけでないから、煩わしく群れたがる『分る力』を避けようとしても侭ならず、そこで世間から離れ一人引き籠り絵描きをしてみた。これもある種のサナギ現象だ。
 『分る力』は物事をどんどん分析分断し、細胞分裂のように分けてゆく。分けられた細胞は一つ一つが離れてゆくわけではなく、未知の『解る力』によって知らぬうちに引き寄せられ、お互い異分子のまま助け合い愛し合い繋ぎ合っている。『解る力』はサナギの内部の『分る力』を和らげ解かし、もはや己の存在まで解かし消してしまいそうにみえるが、なぜか新たな生命体を再構成する。そしてそのうち周りの壁を壊し、内から出て空に飛び立つ。

2017年2月1日水曜日

[5880] 透明な認知論

●透明な認知論
「失望を勝たせていけない」という言葉を聞いたことがある。これは希望が勝つわけではないと思う。希望という地に足がついていない幻想で自分の今をうやむやにはしたくない。
 確かにチョコが行方不明になったとき、かなり辛かった。この時「希望を持つ」ことではなく、「失望を勝たせてはいけない」ことが重要だ。
 これには解る力が必要だ。三日間だ、なぜか三日経てば大抵の些細な問題や悩みは解ける。小説『自由自在堂』にも書いたが、問題を解くとは答えがわかること。わかるには「分る」と「解る」があるが、「解る」方に身を委ねることで問題は解ける。つまり問題を分けないで解かす。グチャグチャにとろかすぐらいに解かす。撲はペットレス症候群に陥るような未来を過去で封じ込めるほど、自分の解る力を失っていないと思う。その解る力とは現代の科学でいえば「メタ認知」で、昔の言葉では般若心経の中の「照見五蘊皆空」だとふと思った。
 解る力で培った精神が当然絵に反映する。それをただそのまま描けば自分が空に解けるだろう。