2017年3月31日金曜日

[5938] 風邪

●脱力
風邪ひいた。寒いんだか、暑いんだかわからん。集中力ゼロ。その代わり脱力100%。かったるくてかったるくて、あ~、かったるい。

2017年3月29日水曜日

2017年3月27日月曜日

[5934] 綱渡り

社会はヤな犯罪多いですね。
人生は綱渡りだなんて言葉がある。
いつなんどき自分が加害者になるかわからない。
欲望のままに性犯罪したり
怒りが沸騰し人殺したり
お金が欲しいと強盗したり
戦争に行って人撃ち殺したり
またこれらとは反対に
いつ自分が被害者になるかわからない。
性犯罪に巻き込まれたり
思わぬところで殺されたり
戦争に行かされ死んだり。
このようにどんな人間もちょっとしたことで
命を落としてしまう危うい綱を渡っている。
今生きているということはありがたいことなのだ
普通の暮らしとはこの綱から下に落ちないように
バランスをとって前に向かって一歩一歩歩くことだろう。
綱渡りで一気に100歩先にはゆけない。
お金がいくらあってもみんな一歩一歩しか進めないのだ。
気を付けないと右や左にぐらついてあっという間に下に落ちる。
ふとした感情でぐらつき偏ることもある。
気付いて頑張って立て直せばいい。
そういった意味で人は貧富の差に関係なく
誰もがこの道を歩いている。
道をまっすぐ行く以外は下に落ちるのだ。
気が緩んだり、脇見したり、遠くばっかり見たりすると落ちるよ。

2017年3月26日日曜日

[5933] 百年

明日や明後日のことはわからないが、
この『プリズム』と名付けた絵を描く好奇心には、
この先、百年が詰まっているように感じる。

2017年3月25日土曜日

[5932] じいちゃん猫祭り

『じいちゃん猫祭り』案内
そろそろお花見の季節、飲んべぇじいちゃんと一緒に花見です。
場所:伊勢のおかげ横丁吉兆招福亭
3/30から花見が終わる頃までかな。
よろしく。

2017年3月23日木曜日

[5930] 地球は母ちゃん

●地球は母ちゃん。
僕「母ちゃん、風邪ひかないように」
母「蒸れて舞うハワイカウアイマウイ島」

2017年3月18日土曜日

2017年3月14日火曜日

[5921] 映画

●映画
 最近の絵、猫が周りに溶け込んで希薄になり始めているような気がする。絵の重点が猫を含めた全体的な画面になってきているのだ。
 これは嬉しい発見だ。スター猫が主役だった映画が、全体的なムードを表現する映画作りに移行した感じだ。実際、自分の好きな映画はスターなど目立たない映画自体が面白い美しいものが好きだから、最近の絵はかなり自分を表現できていると思う。

2017年3月13日月曜日

[5920] ふり

●ふり
 言葉を正直に、生き方を正直に、と言っても、相手に良いと思って正直言ったことでも、それがただの自己中だったり、偽善だったり、乱暴だったりする。正直、『正直』は解らない。みんな何かの『ふり』をしてる。猫かぶりも悪ぶりも偉ぶりも『ふり』は全てウソぶっているから『正直』とは正反対のものだ。『ふり』は自分を正直ぶることもしてしまうから、意外とあざとい。結局、自分の『ふり』にはなかなか気付けない。よく自分を観察し、自分の『ふり』に気付いた時、『正直』が表出するように思える。
 例えば『正直』とは太陽で、『ふり』は雲だろう。雲があろうがなかろうが太陽はいつだってある。自分を覆っている雲に気付くことだ。気付けば青空になる。太陽が出れば、自分が行くべき道の先が見える。その道がどこに向かっているかは解らないが、その視界を絵として実践してみる。するとまた道の先に明かりが差す。

2017年3月12日日曜日

[5919] 正直

●正直
 まだまだ雪は降る。でももう積もることはないと思うので、デッキと池の雪掻きをしてテーブルと椅子を出す。春に向かっての庭仕事はほんとに心地良い。最近の『プリズム』絵も春のようで好きだ。
 昨日の『超かぶり』という言葉は、昔の作品『超化』と同じ意味のように思う。『超化』は猫が過去の他人の名作品に化けて地上から浮いている作品だ。『化ける』だけでなく浮いているので『超』を付けたのだ。二次元の絵の浮遊は浮いた絵を描けば済むことだが、立体の三次元で浮かせるとなると、支えが必要になる。例えばイルカを作って浮かせるとしたら波を作りその上にイルカを乗せる。もしくはイルカの腹に棒を刺して台に乗せる。天井から吊るす。それらはどれも現実として違和感がある、あり得ない。あり得ないのにそれらしく作るのは嘘つきだ。どうせあり得ないなら、さもあり得ない浮き方をする方が正直だ。『正直』とは面白いものなのだ。

2017年3月11日土曜日

[5918] 透明人間

●透明人間
 透明人間とは何を被っているのかどうか解らないが、スケベにとって透明人間は憧れだ。この間の考察で『オレかぶり』=『ゼロかぶり』で、『オレ』は『ゼロ』になった。つまり『オレ』は透明人間になった。とうとう憧れの者になったようだ。でもいまさら透明になってスケベは苦労だ。
 透明人間というのはどんな者か解らないが、色を変えるカメレオンとか枯れ葉に化ける昆虫とか、周りに同化する擬態性質もその仲間だと思う。そういった意味では『猫かぶり』は自分の本性を隠すわけだから擬態であり、透明人間だ。でもバレたら擬態としてはアウトだ。そこで『オレかぶり』という『猫かぶり』の上にオレを被る『超かぶり』に変身したのかもしれない。


2017年3月10日金曜日

[5917] プリズム

●プリズム
 習作でもやっといい感じの絵ができた。これ見て、『プリズム』が浮かんだ。
 光は目に見えず透明だ。それがプリズムを通すと七色に別れる。僕らはこの七色の世界を見ていろいろ判断している。分けたものを見て、これが良い、あれが悪いと言っても、元は同じ一つの透明なものなのだ。つまり自分の本性を知るには、プリズムを通して見ているこの七色の世界の部分をまともに信頼してはだめで、全体を見なければいけない。しかしその全体は透明であるが故に見ることはできない。そこで自分に部分的な色を被せ観察する。それが『かぶり』だが、『かぶり』をしていても透明である『かぶらない』を意識しながら客観的に眺めないと光は感じられない。
 今日は三月なのに雪降りだ。庭は雪を被っていて寒いが、雲の上には輝く太陽がいつだってあるんだ。
 

2017年3月9日木曜日

[5916] 変身

●変身
 子供も大人もよく被り物をする。人は変身願望があるのだろう。
 子供の頃、TVで手塚治虫の『バンパイヤ』の変身シーンを見て興奮したものだ。変身するまでの変化が実に美しい。なるべく時間をかけて気持ち悪いぐらいリアルな変身が好きだ。セミやトンボの羽化も美しい。見ていると一秒毎に世界が変化してゆくのを感じられる。その後いろんな映画で、その手の変身シーンを見ては興奮した。でも仮面ライダーの変身は一瞬でつまらない。
 ところで狼男は人間からオオカミに変身する。変身してしまって、そのままだったら、それはただの獣のオオカミだ。面白くない。またオオカミに変身できるのに、人間のままだったら、ただのつまらない嘘つきだ。やはりオオカミになったり、人間に戻ったり。人間に戻ったとき、一段深い人間になったり、もしくはオオカミからまた別の何かになったりと変身を続けることが面白い。何かに留まったら変身ではなく変死だ。
 僕は『猫かぶり』から『オレかぶり』への変身をなるべくリアルに絵日記で言語と絵にしている。絵日記の絵は実験的なイタズラ書きだが、イタズラ書きもどんどん変身変化成長して、人物主体から周りも含め平面全体に意識が広がり始めている。これは空気に変身しようとしているのか? それとも実体のない鏡? それとも透明人間? 

2017年3月8日水曜日

[5915] メタファー

●メタファー
『猫かぶり』は「本性を現さず、大人しそうに見せること」、ぶりっことか偽善者とも言われる。あまりいい意味では使われない。猫だけに化けの皮を剥がしてやりたくなるが、剥がしたら、たぶん泣かれる、噛みつかれる、引っ掻かれる、刺されるだろう。
 では『猫をかぶらない』とは、本性丸出しで怒るわ、切れるわ、暴れるわ、刺すわ、殴るわ、野獣だろうと一瞬思うかもしれないがそうではないだろう。これらを本性と決めたのは、理性のない人間は動物のように本能のままで、まるで野獣、野蛮は嫌いと上品ぶった輩が自らの優越感幻想を固守する為、他と線引きしたかったからだろう。本性が大人しく可愛いく素直だってある。個性があるんだから人それぞれだ。
 アリストテレスは「人間とは、自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、善く生きることを目指す共同体を作ることで完成に至る、独特の自然本性を持った動物である」と言った。
 僕が自分の作品『オレかぶり』に感動したのは、「可愛い」の上に「気色悪い」が乗ったのもあると思う。一瞬、『猫かぶり』で大人しくしているやつの化けの皮が剥がされて、本性が現れたような心地良さを感じた、自分のね。つまりこの作品は、アリストテレスが言ったように、「善く生きることを目指して」、『猫かぶり』が『猫をかぶらない』を正直に表現したメタファーなのだ。

2017年3月7日火曜日

[5914] 腑に落ちた

●腑に落ちた
『猫かぶり』の僕は猫の神仏を作り、これ以上ない猫を被った。その作品をもって全国で猫のお祭りをやることで、大々的な猫を被った。猫の家を設計し建て住んで、これ以上ない大きな立体作品の猫を被った。もはや完全に猫かぶったわけだ。
 さて今日まで二十年以上もの間、『猫かぶり』をやってきた。しかし自分の中にずっと違和感があった。そこにひょいと現れた作品が『オレかぶり』だった。「やった!」というわけわからん感動があった。この感動は何だろう? これは一時的なものではない。そこにうまいこと個展の話がやって来た。立体や平面で『オレかぶり』を数点作ってみた。
 そして気付いた。
『猫かぶり』とは「本性を現さず、大人しそうに見せること」
『オレかぶり』とは、その「本性を現すこと」
 まあこれが真っ当な考えだ。
 でも違った。
『オレかぶり』とは『猫かぶり』が『猫をかぶらない』ことなのだ。
 昨日の『オレかぶり』=『ゼロかぶり』から『オレ』=『ゼロ』だ。
 つまり『オレ』なんていないのだ。
 自分の小説『自由自在堂』の中に「『作る』『作らない』、『ある』『ない』、『我』『無我』‥‥」を考察探求したシーンがある。僕にとっては最大の仮題だった。
 それが腑に落ちた。
 人は自分が何なのか解らない。人はさも解っているようなことを言うが、何かを被っているだけだ。もしくはこれから何かを被ろうとしている。でもその後、『被らない』をしてみることでしか自分は見えないんだと思った。

2017年3月6日月曜日

[5913] ゼロ

●ゼロ
 ハゲは髪の毛が無いので涼しいかと言うとそうではない。やはり髪の毛があった方が気温調節ができる。ハゲの僕にとっては帽子を被ることで直射日光や雨風寒さから身を守ることができる。気候によっては脱げば涼しく気分も爽快になる。頭を守る為に被り物をいつも用意しておかなければいけない。今までいろんな帽子を買ったが、ベストなのはなかった。ところが今回ベストを発見した。唯一オレしか似合わないオレだけの帽子、『オレかぶり』だった。その『オレ』は60も近い歳だったので坊さんのようにハゲだった。ところで寺の坊さんがわざわざハゲにしているのは、俗っぽい髪の毛を取り除き、本性を見せるため。つまり本性を覆っている髪の毛という邪念や思考を取り除き、無我の境地に達するという比喩だと思う。自分ではアートとは境地に達するものだと思っているので『オレかぶり』が『ハゲかぶり』でうまいこと繋がったと思う。
 でもここで気になったのは、ハゲとは髪の毛がないこと。髪には長髪があり、短いのには角刈りとか五分刈りなどがある。このようにハゲを髪の毛側からの言葉で表せば、『ゼロ分刈り』なんだ。
 『オレかぶり』とは『ハゲかぶり』で、つまり『ゼロかぶり』なんだ。


2017年3月5日日曜日

[5912] かぶり

●かぶり
『猫かぶり』の『かぶり』は昆虫の擬態のように本体を隠し厳しい社会を生きやすくする。
 人は何かしらを被って生活をしている。とにかくいろんなものを人は身に付け被る。個人をほとんど消して国を被る、会社を被る、名声を被る、経歴を被る、家族を被る。主義を被る、世間体を被る。
 これらを被ることで安心を得る。しかしその安心はその小さな集団内のものであって、集団のエッジのあの壁の向こう側には行けない。被り物を外さないでいると周囲に完全に同化し、もはや被り物が外せなくなる。自分を見失い、個ではない大衆になってしまう。被っていた何かになって、自分が誰か解らなくなる。そのうち壁の向こう側が不可解な敵になる。
 とりあえず埃と罪は被りたくない。

2017年3月4日土曜日

[5911] スーパーモデル

●スーパーモデル
 村のにひときわ背が高く無機質で独特の容姿の女子小学生がいる。他の子は普通で洟垂らしたようなほっぺた赤い田舎娘だ。一緒にくっちゃべって歩いている。背の高い子は自分が周りと違うことに少しだけ気付いているがそれほど意識することなくいつもの下校を楽しんでいる。この女の子はスパーモデルになれると見た。このまま放っといたら、年頃になったとき、田舎のバカな男子に遊ばれて、あ〜〜、もったいない。こういう原石は周りでなんとかしてあげないとほんともったいない。しかし周りはやる気がない、諦めている、無理だ、静かに生きればいいよ、なるようにしかならないよ、などのマイナス思考。今はどこでもスーパーモデルなどの情報を得ることができるから、昔程ダイヤモンドの原石が庭石になることもないだろう。
 今描いている撲の絵そのものが、そのスーパーモデルの小学生のような、つまりダイヤモンドの原石なんだと思っている。僕の絵がそのあたりのどうでもいい庭の庭石にならないように気をつけなければならない。

2017年3月3日金曜日

[5910] 絵画と観念

●『絵画』と『観念』
 アートの使者ついでに現代美術について。
 デュシャンを好きだった当時のファンが、バルテュスの絵を好んだだろうか?
 もし僕なら好まなかっただろうと思う。実際自分はファンでないからどっちも面白いと思う。
 デュシャンはレディ・メイドという既成品の便器を展覧会場に展示したことで有名だ。「ほれ、便器だ、勝手に感じ思うがいい」。当時の観客を小馬鹿にした、否、対象物を描く『絵画』というものではなく「ほれ、便器だ」という『観念』を会場に提出したのだ。頭のいいヤツは脳を降る回転してこの作品?を分析しなければならない。これによって人間の知性が向上したと思う。作る『絵画』より作らない『観念』の方がより刺激的で自由で学びが多かったからだ。さて、それ以降アートにはヤバいほど刺激的な観念なるものが必要になってきている。なぜなら『絵画』の喜びと『観念』の喜びを知ってしまった今日、僕らはそれ以下ではあんまり喜べない。例えば新しいとても美味い酒を飲んでしまったら、それ以前やそれ以下の味わいの酒では満足しなくなるようなものだ。
 ではバルテュスはどうだろう。まるで絵本になり切れない自分の嗜好の世界を絵にしたようなものだ。デュシャンの『観念』などどうでもいい時間を無視した完全なる視覚『絵画』だ。デュシャンの酒は大量生産的だが、バルテュスの酒は誰にも飲ましたくない秘密の美味い酒だ。

2017年3月2日木曜日

[5909] アートの使者

展覧会案内
石川県金沢市 大和香林坊店8F催事ホール
『日本の名匠たちの仕事展』
誕生日猫366点出展してます。
2017年3月3日〜7日までやってます。
●アートの使い
 昨日はいきなり東京から東京時代の知人だという者がやってきた。それも駅から歩いてきたらしい。記憶にない人だ。だいたい30年ほど経つし、いったいどこの誰? この馴れ馴れしさは僕を友達と思い込んでいるストーカータイプかもしれない。
 彼は現代美術のコレクターらしくアートに詳しい。絵からの流れを粘土に吹き込もうと実験していた粘土作品が朝方成功して出来ていたので見せたら、すごく絶賛。ならば今はまだ本物は見せられないので、絵の写真を見せたら、イマイチの反応。好きな作家を聞いたら、僕の好みとの違いが明確。現代美術もいろいろだ。大抵の人は自分の好みでものを言う。例えば僕の作品神様系を好きな人はいい仏道歩んでいると思う。例えば僕の作品癒し系を好きな人は心優しいと思う。例えば僕の作品の超化系を好きな人はいい感性をしていると思う。こんな感じに僕は自分の中にあるいろんな自分を発見しては作品にしているようなものだ。今回彼が絶賛した粘土作品はある意味で高級な感覚だ。でもほぼ全てを包むようなその現代アート的高級感覚も他人の思考が入るとアラユルコトの中の部分に過ぎない。僕にとっては絵は超高級なのだ。
 しかし珍しくアートの視点を持っているやつだった。彼が帰ったあと、いったい誰だったのだろう? いったい何しに来たのだろう? 彼は実在したのだろうか? と考えた。そうか! たぶんこの制作半ばの時期、いいタイミングで突然現れたのは、アートの神様が遣わした知人らしき人に化けたアートの使いの者なんだ。
 いろんな意味でかなり勉強になった。
 何をも超えて、超えて、透明な軌道を進もうと思った。

2017年3月1日水曜日

[5908] 門

●門
 ネットの映像で面白いのを発見した。門越しに犬同士が「バカ、バカ、アホ、弱虫、くるなら来いよ、かかって来いよ」と吠え合っている。この門は少しずつ開いている。もう門は半分以上開いて、開いた所から門の外に出て戦えばいいのに、開いた所には移動せず、あいも変わらず犬たちは狭くなった門越しに「なんだよ、おまえこそ来いよ。来て戦えよ。バカ、死ね、弱虫が」と吠え合っている。門が全部開いたら、犬たちはそそくさと散らばっていった。本気で戦う気はなかったようだ。門があるから粋がっていたのだ。門が自分を守ってくれているから吠え合っていたのだ。人間もそうかも。
 いや待てよ、もしかして敵にではなく門に吠えていたのかも。門という壁。
 写真は犬っぽいけど僕のイラスト『ハナタレ猫G8』の酒用の平盃。平らなお猪口ですね。熱燗で楽しめます。欲しい方は河北町の源八酒屋さんへ直接どうぞ。ちなみにG8は源八のこと。