●白糸淹れコーヒー
小田原駅の地下にあるカフェに入った。酸味が効いているブレンドを頼んだ。きたのは濃い苦味色、なのに一口飲んで、あら酸味、美味い! 「とても美味しい」とマスターに言ったら、喜んでいた。
家に帰ってから、あの雑味のない美味さは淹れ方にコツがあると思った。豆をお湯でかき混ぜない。そこで木をナイフで削ってポットの先に取り付けた。何度も削っては嵌め、やっと木の先から細い糸のようなお湯が静かに出るようになった。
二人分のコーヒー:豆40g、350ccのコーヒー、お湯250ccを淹れ、最後に100ccのお湯を入れる。
美味い! 『白糸の滝淹れコーヒー』と名付けた。ちょっと長いので『白糸淹れ』にしよう。
2025年4月27日日曜日
[8783] 白糸淹れコーヒー
2025年4月26日土曜日
[8782] 春の朝
●春の朝
昔『春の朝』という個展をやった。
時々感じる心地よい感覚がある。これをなんと表現すればいいのか。恍惚とか忘我ではちょっと行き過ぎている。麻薬的も行き過ぎている。ある時、新聞かなんかでコリン・ウィルソンの至高体験『春の朝』という文字を見た。この感覚は『春の朝』が最も適していると思った。『春の朝』は何気ない日常に思わずやってきて優しく包む。例えば毎日の皿洗いをしているある瞬間とか。
『春の朝』は快楽の感覚ではない。快楽は現実逃避が底辺にある。『ここ』と『快楽の目的』の分断した二つがある。これは目的に向かう欲望という妄想だ。二元だからあっちこっちに揺れる。あっちこっちで言えば主流と反主流がそうだ。巷に溢れるほとんどの情報は敵味方に分かれる。主流と反主流の対立だ。どちらも目的思考だから二元から出ない。
『春の朝』は快楽ではない。快楽とはまるで反対の『苦労』『忍耐』などの経験が根っこにある。そこからの逃避ではないのだ。「若いときは苦労しなさい」はいい言葉だと思う。無目的、無願、無所得などの言葉が合う。だからこれ以上の段階的至高もなければこれ以下もない。あるなら二元に陥る。目的思考の世間は見逃す。人はいつだってここにいる。
今朝、庭で朝食していて、
「春の朝を体験したことはあるか?」とSSに尋ねた。
コゲラが木をつつく音がしている。
「頻繁にあるよ」
2025年4月25日金曜日
[8781] 地球のお仕事
●地球のお仕事
植え替え二日目。
1日2時間ぐらいで三日間のつもりだったが、
SSが助っ人に入ったので今日で終わった。
スイレンが10種、ハスが4種。
家の中の鉢と玄関のつくばいのスイレンは今年植え替えなし。
つくばいにボーフラがわんさといるのでメダカを入れた。
おー、生き餌だーと喜んでパクついていた。
今日は地球のお仕事をした気分だ。
これから毎日の変化が楽しみだ。
2025年4月24日木曜日
[8780] 植え替え
●植え替え
今日は睡蓮と蓮の植え替え初日。
小田原のお客さんが「庭に蓮を植えたい」と言っていた。そこで世話の仕方や植え替えのことなどを話したら「植え替えしなければいけないのですか?」とやる気がない感じだ。植え替えからの花咲くまでが最高なのに全くわかってない。花は好きで泥は嫌。これは頭が偉く身体を卑下するような思考だ。身体は頭の奴隷ではない。社会は概念中心になりすぎて頭以外を差別をしていることに気づかない。遺伝子は設計図だけでなく大工技術と一体であることを忘れている。植え替えなどがあるから蓮の全てが己になる。蓮華座が坐禅の結跏趺坐だ。観想は花の美しだけを見るものではない。泥でできていることを観ることである。
2025年4月23日水曜日
[8779] 刻一刻
●刻一刻
サクラとユキヤナギの花びらは昨日でもうひらひらと散り葉が出ている。交代でハナモモが何よりもピンクに咲きハナカイドウが強烈な赤い蕾を開き始める。サクラのこれからの花吹雪を借景にヤマボウシやクヌギやツタの新緑が点描される。新緑は木によって薄緑の色合いが異なり日を増して濃い緑になる。ハナミズキの花の咲き方は見てて面白い。蕾に水が吸収され花が日毎大きくなるからハナミズキなのかと思わせる。地面はどこを歩いてもアマガエルがいる。一斉に目が覚め蠢き出したのだろう。踏まないように気を付けて歩かねばならない。鉢の中に青いアマガエルがいた。この季節の庭の目まぐるしい変化は実に楽しい。
2025年4月22日火曜日
2025年4月21日月曜日
[8777] 夢
●夢
『安倍ちゃんと電車に乗っている。安倍ちゃんとは元総理の安倍晋三だ。駅に到着し乗り換える。切符を出そうとしたが見当たらない。駅にある台の上にポケットの中の携帯や財布など全部出した。切符は見つかりとりあえず乗り換えた。随分経って次の乗り換えだ。切符を探したがまたない。切符どころか財布も携帯もカバンもない。免許証も保険証も現金も銀行のカードなどもない。多分前の乗り換えの駅の台の上に置いたままかもしれない。誰かに取られたら大変だ。ポケットに十円玉が一個だけあった。公衆電話があった。SSに電話したらなんとかなるだろう。しかし電話番号をはっきり覚えてない。もし間違い電話したら、それで十円がなくなってしまう。安倍ちゃんに十円貸してくれと言ったら、安倍ちゃんは「これまでお金は持ったことがない」と言う。安倍ちゃんは背広のポケットを弄り、これしかないと丸いバッチのようなものをくれた。これで電話はかけられない。安倍ちゃんは電車に乗っていってしまった。私は途方に暮れた』
ここで目が覚めた。うつらうつらしながらこの苦難の場をクリアーする手立てはないかといろいろ考えた。しかし実際は歳と共にこういう物忘れやミスが増えてくる。どんな手を打っても不安が残り完璧な策はない。このままでは眠れない。
ふと、あー大丈夫だという思いが湧いてきた。私は自分を示す免許証も保険証もこの世間を生きるに必要な金もない。野良猫のようなものだ。ある意味、自分を縛っていた全てがなくなったのだ。ならば不安も無くなった。これは全てから脱した自由というものなのだ。実際に撃たれて亡くなった安倍ちゃんが乗った電車は銀河鉄道のような死出の旅なのかもしれない。私は世間の全てを置き忘れ何も無い状態に救われたのだ。
この夢の二日前に坐禅の結跏趺坐は何からの発想なのだろうと考えていた。今わかった。あの身動きできない脚の組み方は世間の縛りなのだ。だからこそ生死即涅槃なのだ。
なるほど理解とは知識ではなく智慧の体験なんだと思った。
2025年4月20日日曜日
[8776] シミ
●シミ
顔のシミがひどいのでサングラスをしている。サングラスの黒が目立つのでシミが目立たないのだ。
小田原の展示会に来たSSの友人女子らが僕のシミに気づいた。「それ、落とせるよ」と言う。彼女らを見ると60過ぎてるのにシミがない。なんでシミないの? と聞いたら「ビダミンCを塗るのよ」、へぇー、ゴシゴシ擦って顔洗って、馬油塗っているんだけどダメ? と言ったら、攻撃の嵐。「油はダメよ!」「バッカじゃない!」「庭で日焼けして、シミひどくなるわよ」「何考えてんの」「ハゲ、サル」…
若い頃は「わじんさん、肌、キレイ!」とお前らの憧れの肌だったのに、、クソー。
と言うことで、最近SSの化粧なんやら借りてシミ落としに精を出している。
2025年4月19日土曜日
2025年4月18日金曜日
[8774] 浮いてる
●浮いてる
久しぶりにもちやかたに弁当買いに。
女将の奈緒ちゃんは楽しい女性だ。
たまに話すといろんな閃きが得られる。
相性がいいのだろう。
お互い世間からは「浮いてる」って言われる。
まぁわからんでもない。
しかし世間の奴らが沈んでいるんだ。
さっさと浮かんでこい!
2025年4月17日木曜日
2025年4月16日水曜日
[8772] なになにのためのなになに
●なになにのためのなになに
「なになにのためのなになに」
人はほぼこれで今を無駄に生きている。
いい会社に入るための学校。
学校がただの踏み台だ。
金持ちになるためのなになに。
成功するためのなになに。
幸せになるためのなになに。
全部が次のステップへのただの踏み台。
そのうち踏み台で命尽きるよ。
坐禅は何にもならない。
「なになにのためのなになに」
ではないからだ。
今は庭の木々の蕾が膨らんでていい感じだ。
蕾は花のためではない。
蕾は蕾、花は花。
2025年4月15日火曜日
[8771] 説似一物即不中
●説似一物即不中
一般的に作品の制作に区切りが付いたら制作年を入れる。私はほとんどの作品に制作年は入れない。作品が完成したようには感じないからだ。それを個展などで発表し、もし誰かの手に渡ったら、私の中ではその年がとりあえず制作年になる。誰の手にも渡らず戻ってきたら、保管し時々何かのきっかけで、ほとんどはそのままだが、手を加える作品がある。でも未完だ、誰かの手に渡るまでは。
人は完成品が好きだ。なぜなら人は未完だからだ。もっと奥には完成があるからその幻影を追うのだと思う。自分もまた幻影を追うためか完成しようと手を加え過ぎてしまう。
今から一年以上前にこれ以上手を加えないほうがいいと感じ、未完のままアトリエの壁にかけておいた絵がある。今回、未完のあの絵を発表したくなった。しかしその絵にはペリペリを施してない。自分のサインのようなペリペリをどのように施すべきか、と考えていて、、、そうかサインだ! そこでこの絵にペリペリサインを施した。すると気分は爽快。最後に目を入れる画竜点睛ではなく、白目と光をペリペリして完成となった。タイトルは『説似一物即不中』とした。