●言行一致
『世界招福宣言』、宣言したからには実行せねば。
私の設計したこの家は夫婦招き猫で、その胎内である庭も寂静の福の時空だ。ここで創作産まれた招き猫は国内外に広がっている。誕生日猫などはまさしく産まれた月日で全人類の誰かしらに合う。つまり宣言通り世界を招福している最中なのだ。これが言行一致だ。
自分が言行一致でないと感じるならまだまだ隙間や余裕がある。埋め合わせすべきことや学ぶべきことややるべき生き甲斐があるのだ。
2024年10月8日火曜日
[8582] 言行一致
2024年10月7日月曜日
[8581] 胎内
●胎内
昨日書いた『世界招福宣言』って胎内だ。それで思い出した。そういやこの家がそんな形だと。
家は2匹の雌雄猫が寄り添っている形。だが玄関側は? 玄関だけ屋根が銅板でできている。左右が大腿部、玄関は女性のアレでここから産まれてきたわけだ。
玄関から中に入ってゆけば子宮である庭。池にはスレンやハスが咲き、川・山・空がある。庭は胎内かつ美しきニルバーナだね。庭で振り返れば睦まじき夫婦猫。産まれてきたところが美しく行き届いていれば産まれてからも幸せな心を持つだろう。そんな意識があって寂静の庭造りをしているのかもしれない。
2024年10月6日日曜日
[8580] 世界招福宣言
●世界招福宣言
よく人の名前を忘れる。名前だけでなくめちゃくちゃ面白い話だったのにどんな内容だったか思い出せない。知識や情報は頭からどんどん消えていく。また止めてもいく。若い頃はタバコを吸っていたが、吸わなくなった。食事は一日三食だったが二食、量も昔の半分だ。酒も飲まなくてもいいようになっている。いろいろとこれまで身につけたものを捨てている。忘れる、消える、止める、捨てる…
元々無いところから来て、有るような無いものを得て、それを元の無いに返す。
41歳の時、東京に私の専門ギャラリーができ外の壁に『世界招福宣言』を書いた。今はない。
◎世界招福宣言
『母のお腹の中にいる頃、心の中には何もなかった。いいもわるいも、きれいもきたないも、だから心配もなかった。ただ、とてつもなく長く、とてつもなく巨大な安心があっただけだった。それ以外になにもいらなかった。それが『福』である』 1998年11月14日
2024年10月5日土曜日
[8579] 魂の浄化
●魂の浄化
魂とは無垢で清浄な己、赤子のようなものだろう。
人は言葉に囚われたり、感情に左右されたり、欲に支配されたりする。だから本来の己である魂が叫ぶ。「汚れたもんで覆わないで洗ってくれ」と。
山登ったり草刈りしたり薪割りしたり歩いたりなどの動く行為はやり始めが面倒だ。でもやり始めて面倒20分を過ぎた頃、坐禅は不動でシンプルだから30分過ぎた頃、頭が主役の座を降り、同時に身体が主役に浮上する。清々しくなる。面倒だと思っていたことが面倒で無くなる。面倒=無面倒。それは全てを逆転させるパワーだ。生き抜くパワー。苦を屁とも思わなくなる。魂の浄化=身体の復活。
2024年10月4日金曜日
2024年10月3日木曜日
[8577] ホワイト企業
●ホワイト企業
今日は草刈り。庭の見事に育った金木犀が村山市全体にいい香りを漂わせています。
新聞にブラック企業の反対の超ホワイト企業と言われている会社が出ていた。
『社員第一主義を掲げ、お互い様が大事。儲けの三分の一を社員の賞与。気付いたら業績がすこぶる上がった』
考察してみた。社員というのは会社の身体。社員にとっては顧客が身体。顧客にとっては家族が身体。家族にとっては家庭が身体。家庭にとっては庭が身体。庭にとっては自然環境が身体。金木犀の香りを嗅ぐのは身体。
方向としては頭ではなく身体、上ではなく下が大事。情報ではなく生身が大事。人は善悪はどうあれ頭の情報ばかり追う。妄想に囚われているのだ。妄想に憂慮、追いすぎると身体がついていけない。それで頭も身体も共倒れ。
2024年10月2日水曜日
[8576] 左手袋
●左手袋
右利きだから、右が穴だらけで使い物にならなくなり左だけが残る。これが政治だとしたら、右が穴だらけで使い物にならなくなり左だけが残る。左だけ残っても使い道がない。何か使えそうな気がして捨てるに捨てられない。取り敢えずまた両手を買う。使えそうな左がいっぱいあるのに金が掛かる。そこで左を裏返しにして右にする。裏返すのに大変だが、一般の右で使える。結論として右は穴だらけ左は裏返され右になる。これは右利きの場合のこと。社会には左利きもたくさんいる。残った右も裏返され一般の左で使える。最後まで全部役に立つ。
2024年10月1日火曜日
[8575] 山
●山
庭の曼珠沙華、満開。大自然の仲間になって秋支度。よしずを外す。
山登りと読書が好きな70歳の三原さん。私の作品の猫だけでなくペリペリなど数点持っている。私の庭にも感動。『坐』の本を出したので久しぶりに家に来た。
三原さんはこの前まで腰を痛めて手術し、山に登れないので落ち込んでいた。ところが調子が良くなったらしく、近所の甑岳に登った。熊よけの笛やラジオ、杖を持って往復4時間。今度、片道7時間の鳥海山に登るらしい。うちから帰る時、腰を守りながら靴を履いていたが、嬉しそうな顔をしていた。
なぜそこまでして山に登る? 聞いたが山登りの人は口数が少ない、ニコニコするだけ。側から見たら崖から落ちても熊に襲われてもいいような。それよりも登れない方が辛い。
山形県には『西の伊勢参り、東の奥参り』と言われる奥参りの出羽三山がある。私は西の伊勢で猫祭りし東の山形に住んでいる、何かの縁かしら。
出羽三山には修験道があり、山伏は山で精神を研ぎ澄まさせ思考を超えた図太い直観を目覚めさせる。直観とは二元になる前の叡智だ。根本知であるそれが三原さんを誘うのだ。人間社会は二元の分別知であって、ここからの脱出はできない。なぜなら思った瞬間、言葉にした瞬間、それはもはや直観ではなく思考だからだ。だから山、そこで叡智に触れる。坐禅はまさしく山だ。まぁ、三原さん、山登りができなくなったら坐禅だね、、、汗かかないけど。