●一人称
去年まで僕は自分のことを『ワシ』という一人称を使っていた。
『ワシ』というのは、イメージとしていろいろあるが、例えば老僧のような人が使いそうだ。何もかも解って悟って、寺に籠って、庶民の心を把握し、彼らが迷って事件や事故など起こさぬように、気を配って道を示す。自分は解っていると思い込んでいるが、年の功によって増えた知識で見えた虚妄に騙されていることもある、本当は歳取った口の達者な無知かもしれない。
絵を真剣に描くようになってから、そんな自分の無知に遠慮していただきたくなったようで、老僧の『ワシ』から、日本語にはたくさんの一人称があるけど、若輩の『僕』にした。
これから個展する会場は馴れ合いのない初めてところ、『ワシ』では相手に失礼、同時に澄んだ空気が濁る。新鮮な絵まで濁ってしまう。今までの小さな世界の中で、似非老僧がおだてられて乗せられて、個展をしたところで、自分の中の自惚れ屋やスノッブが威張るだけで、なにも生まれない。そこに創造はない。見る客層も今までの流れの中では川の魚だけが魚であって海の魚は魚でないようなもの、井の中の蛙大海を知らず、それでは広がりがない。小説『自由自在堂』の『天才の章』に書いた詩のごとく、部分ではなく全体、アラユルコトへ向かおうと思う。そこで二十代、格好つけタバコの煙に自分を誤摩化し創造のまっただ中にいた若きアーティスト、生意気だが控えめ、無学ゆえ学ぶために、復活、生まれ直し、今、『僕』という青年の精神を内部から呼び戻し、実行実践に向かう。それが『僕』の一人旅、一人称だ。
絵はインド・バラナシーにいる25歳の粋な撲。
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