2026年1月4日日曜日

[9035] 組合せ

 ●組合せ
 サトリ部屋は平面と立体の組合せによって見えないものを見る。初めての試みで面白かったので、今いろんな作品で平面と立体を組合せしている。二次元と三次元の組合せで見えたのだからそれを五次元としよう。これにペリペリ一次元と時間も加わるから七次元だ。多次元がサトリ、一般次元では見えない。直感してもらうために二次元と三次元に分けたわけだ。でも見えている二次元も三次元もそのものではない。やはり組合せが大事だ。だから現実の次元での文字や言葉や形そのままを鵜呑みにする思考は的外れだ。情報を鵜呑みにするなってことだ。その思考に捕らわれることも避けねばならない。例えば男と女の間には空間がある。男が女を見るとする、男は自分を三次元とみなす。彼女はまだ触れてないから二次元だ。二人の間には何もないし深いところは見えない。ある時、組合せ、何かが見えた。それが愛だろう。それは多次元だ。でも掴んだそれはもう愛ではない。掴めるのは一般次元だからだ。やはり組合せが重要なポイントだ。




2026年1月3日土曜日

[9034] 枝葉末節

 ●枝葉末節
人の思考は枝葉末節
中心からズレている
太陽系の星々の中心が
太陽ではないように
太陽系に住んでいる
我々の思考は枝葉末節
AIだって中心ではない
その神だって
その愛だって
全ては枝葉末節
元を見失っているから
元のキがなく
枝葉末節がキになる





2026年1月2日金曜日

[9033] 神様

 ●神様
正月、神社神様にいろいろお願いしたり救いを求めたりするけど、神様は忙しい。宇宙を動かしたり太陽を回したり地球回したり月動かしたり。それだけでなく地球上の植物育てたり動物育てたり私ら生かしたり死なせたり。雨降らしたり風吹かしたり雪降らしたり晴れにしたり天気予報翻したり。時間まできちんと刻んで1秒よりもっと細かいことしている。人間はなにも知らないのに適当なこと言うし欲集りだから期待して望む貪る、怒る、争う。とにかく神様はやることが隙間なくある。人間は黙って神様が作った完璧な自然を見習えばいい。もしくは黙って坐る。これで神様ホッとして世界は安泰。





2026年1月1日木曜日

[9032] 元

 ●元
子供は元気いっぱい
好き嫌いを気にしない
あれこれ選ばない
元にいるから
一年の計は元旦にあり
選ばないのが元気の元





2025年12月31日水曜日

[9031] 如来

 ●如来
『猫神』も『ペリペリ』も
『わ』も『サトリ』も
思いも寄らないものだった
これらは論理的思考から来るものではない
『降りてきた』とか『閃き』だ
「思わぬところから来た」ものだ
そういや『如来』とは「来る如く」だが
人は四六時中その中にいる
日光寒暖雨雪然り
人の思量は確実に不確実だが
これだけは確実に非思量だ





2025年12月30日火曜日

[9030] 東西

 ●東西
西の伊勢参り、東の奥参り
西の金閣寺、東のサザエ堂
西の龍安寺石庭、東のサトリ堂
ってね。





 

2025年12月29日月曜日

[9029] 瀧安寺石庭とサトリ部屋

 ●瀧安寺石庭とサトリ部屋
 個展も終わりサトリの部屋を振り返って瀧安寺石庭が過った。
 古今東西、瀧安寺の石庭に勝る芸術はないと私は思う。(500年以上も前のものだ)
 巷にある芸術作品はたくさんの石を積み重ねる。石とは知識やアイデアや金や人や時間などあらゆるものだ。人間の思考とは目的に向かって石を積む。しかし未来に対して不安なのはいつも石が足りないのだ。
 瀧安寺の石庭はとてもシンプルだ。深遠な智慧と最低限の材料だけ。草木もない枯れた風景だ。15個の石が配置されているのだがどこから見ても14個しか見えない。だから石はいつも余分にある。閉じてないのだ。足るを知るからこそ終わってないのだ。自慢げに15個見えたという者がいるなら、残念だけど閉じちゃったね。人間はいつも足りないことがわからない。
 サトリの部屋は瀧安寺の石庭に匹敵しうる。後世に残すべく、どこぞに『サトリ堂』でも作ろうかしら。