●深く
陶芸は手で作る
上が知で下が無知だとする
ならば上下の中間の位置
ハートに『無知の知』はある
ハートには慈悲がある
ハートの左右に手がある
手はものを作り人を繋げ合掌し祈る
上の頭は科学で下は根源ありのまま
科学は上にのさばるから深さがない
ハートまでの深さがない
ハート手前にわかったように語る口がある
頭中心の科学の物差しでは
鶏が先か卵が先かわからない
柿がなぜオレンジ色なのかわからない
わからないでできていることがわからない
深く深く根源ありのまま
(お!絵日記9000番、深くまで来たね)
2025年11月30日日曜日
[9000] 深く
2025年11月29日土曜日
[8999] 無知の知
●無知の知
今『サトリを中心に渦巻く世界』という個展をしている。「サトリを中心」とはどういうことか?
昔々神様が一番の知恵者はソクラテスだと言った。ソクラテスは自分は知恵者ではない。でも神様が嘘をつくわけがない。そうか「自分は自分が知らないということを知っている」と言う意味で知恵者なのだと悟った。これが『無知の知』だ。これは清々しいサトリ。ならば『無中心の中心』もありだ。「世界中どこにも中心は無いが中心だ」と。これで左右や上下に寄るところがないからどこまでも無限に広がり自由である。何かが中心に居座れば清々しさが失われる。これが個展タイトルの『サトリを中心…』だ。だからサトリ部屋は何よりも清々しい。
2025年11月28日金曜日
[8998] 宇宙飛行士
●宇宙飛行士
サトリの部屋に入ったほとんどの人は
うまく言葉にできない。
実は制作した本人も言葉にできにくい。
たぶん比較や中心が無いからだろう。
高木さんは「無限の広がりを感じた」と言う。
言葉は括るから有限だ。
サトリの部屋は
『地球を飛び出し宇宙へ向かった』
これだね。
宇宙飛行士なんて誰もがなれるわけではない。
現代科学の粋を集め時間もお金も
体力や精神力も並外れたもの。
でもここにある。
そこが益子、個展のサトリの部屋だ。
皆さん、今こそ宇宙飛行士になーれ。
2025年11月27日木曜日
[8997] 器
●器
益子は陶芸の街だ。生活の隅々まで陶芸が生かされている。こんな山奥なのに世界中の陶芸作家やファンが集まる。城内坂通りは500mもあり、陶器屋や食べ物屋が並ぶ活気ある通りだ。
陶芸は街を作るボトムアップに思えた。逆に街づくりデザイナーはトップダウン。しかし陶芸の器は食を盛るデザインでトップダウンだ。ボトムアップはトップダウンってことだ。逆もまた然り。これは視点の方向の違い。個人主義は全体主義、民主主義は共産主義と言えなくもない。意味がこびり付いた名称ではなく、視点を揺らさなければ盛るものは盛られるもの。
2025年11月26日水曜日
[8996] 何度も
[8996] 何度も
2025年11月25日火曜日
[8995] 此岸→橋←彼岸
●此岸→橋←彼岸
リンク関係女性3人が個展にてとても感動したと
今回の個展は可愛いでもアート技術でも
構築された理屈でも雰囲気、気分、感情、感性など
これら一般的な自己主張基準が中心ではない
もっと根源的なものだ
彼女らは『サトリ』部屋に入った時
猫と猫でない、あるとないを観る
瞬間、此岸と彼岸の間に架けられた橋を渡ったのだ
橋を造るには此岸からの工事だけではダメだ
彼岸からも工事しなければいけない
双方からの工事
そしてあなたが渡ることで橋は完成する
※みんな「また行きたい」と言うからありがたい
2025年11月24日月曜日
[8994] 生涯最高
●生涯最高
ヨガ先生から
「個展に行ってきました。感動しました。
目から鱗です。会場から帰りたくなくなった」と
『サトリ』を体験したような…
僕が照れ臭くなるほどの感動の言葉をいただいた。
我が生涯最高の個展です。
皆さんも是非見に行ってください。
2025年11月23日日曜日
[8993] 海
●海
3年ぐらい季節に心身委ねれば
『日々イルカ陸を離れてバタフライ』
と言ったが我が経験では10年だね
20年30年もすれば
海そのものになるような
自我とはあれイヤあれ欲しい時に顔を出す
寝ている時はいない
だから自我は身体の支配者でもなく中心でもない
好きだの嫌いだの良いだの悪いだのと
陸にいて上下する海の波見て翻弄している
それは海の一部だ
海には深さがあり山があり空があり月がある
海はこれら全てだ
2025年11月22日土曜日
[8992] 日々イルカバタフライ
●日々イルカバタフライ
今日は天気がいいので庭で薪運び大汗の後の風呂上がりのビール。早朝坐禅があるので無欲と欲が渾然一体、これで陰陽太極に親しめているような。
さてめちゃくちゃいい庭なのだが、住めば当たり前になって慣れる。都会に住んでいるものにとっては外での食事は憧れである。いざやってみると、いつの間にか慣れてしまう。だからそんな他所に旅に出る。無常が真理だから変化が必要なのだ。都会のアパートではほぼ変化を感じられない。変化はネット情報になる。それは頭の中だけの作り話が色々変わっているだけで身体は流れを止めたダムだ。そのうち淀む。そこで田舎暮らしが浮かぶ。覚悟して田舎に住むが、しばらくすると慣れてつまらなくなる。まだまだ田舎をネット情報の一部と思っているからだ。3年ぐらい季節季節日々の変化とともに暮らせば内面の変化と外の景色の変化が同時進行し一体化している真実を知る。力も入れず外部の抵抗もなく流れスムーズに泳ぐイルカのバタフライのような日々になるはずだ。
2025年11月21日金曜日
2025年11月20日木曜日
[8990] 鏡
●鏡
鏡に写った自分は全て逆だ。
まず左右が逆だ。僕が右手を挙げれば奴は左手を挙げる。
前後が逆だ。東を向いて立てば奴は西を向く。
上下が逆だ。頭の上に鏡を置けば奴は逆立ちをする。
私たちは全く反対の自分を自分だと思い込んでいる。
世の中の全てを本末転倒して見ているのだろう。
上だと思っているならそこは下だ。
なんでも増やせば増やすほど減る。
美に執着すれば醜くくなる。
自由こそ不自由で不自由こそ自由。
落ち込んでいるのはやる気満々なのかも。
クマかと思ったらネコだった。
2025年11月19日水曜日
[8989] 見る
●見る
初雪です。
自分の目で自分の目は見られない。このように言われなければ、自分の目で自分の目を見ていると思っていたはずだ。鏡とがビデオその他の情報があるからだ。鏡は前後が逆なので空間的なズレがある。ビデオは時間的なズレがある。だから本当のところは見ていない。この「見る」は概念であって情報の寄せ集めだ。頭が作った作り物を見ているだけなのだ。自分の目を見ていないが本当なら自分の本当も知らない。
今、乗っている車のルームミラーの映像はちょっと前のビデオ映像だと言う。そのうち掛けたメガネがAI映像処理し外の風景はどこぞのアニメ風にもなるのだろう。それ風の音楽が流れ、今日は宮崎アニメ風の中をドライブ、今日はトロピカルな南国をドライブ。単なる自転車がどんどん科学の粋をつくした豪華な乗り物になっている。作り物は自他を無くそうとしているようだが、返って自他が大きく分離している。生死が分かれてしまうほど。生だけが生き残ることは無いのに。
この雪景色を家の中から「見る」も実はそんな作り物だ。
庭に出て雪景色の中に身も心も置く。太陽に眩しく光る雪や水溜りに靄、冷たい風が肌に触れ、雪解けや葉の散る音、全身全霊が景色に溶け込む。主観の私も客観の雪景色も一体化する。その一つの様相が「見る」なのだ。作り物が科学を駆使してこれに近づこうとしてもそのズレは埋められない。そのズレが違和感や迷妄として心に残る。
















































