2025年12月31日水曜日

[9031] 如来

 ●如来
『猫神』も『ペリペリ』も
『わ』も『サトリ』も
思いも寄らないものだった
これらは論理的思考から来るものではない
『降りてきた』とか『閃き』だ
「思わぬところから来た」ものだ
そういや『如来』とは「来る如く」だが
人は四六時中その中にいる
日光寒暖雨雪然り
人の思量は確実に不確実だが
これだけは確実に非思量だ





2025年12月30日火曜日

[9030] 東西

 ●東西
西の伊勢参り、東の奥参り
西の金閣寺、東のサザエ堂
西の龍安寺石庭、東のサトリ堂
ってね。





 

2025年12月29日月曜日

[9029] 瀧安寺石庭とサトリ部屋

 ●瀧安寺石庭とサトリ部屋
 個展も終わりサトリの部屋を振り返って瀧安寺石庭が過った。
 古今東西、瀧安寺の石庭に勝る芸術はないと私は思う。(500年以上も前のものだ)
 巷にある芸術作品はたくさんの石を積み重ねる。石とは知識やアイデアや金や人や時間などあらゆるものだ。人間の思考とは目的に向かって石を積む。しかし未来に対して不安なのはいつも石が足りないのだ。
 瀧安寺の石庭はとてもシンプルだ。深遠な智慧と最低限の材料だけ。草木もない枯れた風景だ。15個の石が配置されているのだがどこから見ても14個しか見えない。だから石はいつも余分にある。閉じてないのだ。足るを知るからこそ終わってないのだ。自慢げに15個見えたという者がいるなら、残念だけど閉じちゃったね。人間はいつも足りないことがわからない。
 サトリの部屋は瀧安寺の石庭に匹敵しうる。後世に残すべく、どこぞに『サトリ堂』でも作ろうかしら。





2025年12月28日日曜日

[9028] 中道

 ●中道
サトリ画の流れで『猫なし』にハマっている。
今回は猫手の『猫あり』と平行して描いている。
それぞれ面白い。
『猫あり』が足し算で『猫なし』が引き算って感じ。
右、左、右、左と歩いているような。
あー、これが中道か。





2025年12月27日土曜日

[9027] 幽体離脱

 ●幽体離脱
幽体離脱という言葉がある。
寝ている自分を天井から眺めていたとかだ。
この場合、幽体というのが本体で
寝ているのは仮の皮袋のように考えている。
しかし幽体の方が名前からして幽霊の幽、お化けだ。
そのまま離脱させちゃえば意外と清々するような。
まぁそのうち恨めしくなって本体に返ってくるけど。
例えば寝ている美人さんがいるとする。
爆睡、口開けてイビキガーガー
涎たらたら服もはだけて屁までこく。
あの美人はどこに行ったのか? 
幽体離脱したのだ。





2025年12月26日金曜日

[9026] へのカッパ

 ●へのカッパ
SS「『へのカッパ』って、
『カッパのへ』ならまだわかるけど、なんで『へ』が主役なの、どういうこと?」
オレ「カッパがへだから、へがカッパ。だから『へのカッパ』も『カッパのへ』も同じ。主役・脇役なんてないんだよ」
SS「いつも口から出まかせばっかり喋ってるぅぅう♪」(YUKI [JOY])





2025年12月25日木曜日

[9025] 和

 ●和
 今回、陶芸の街益子で陶芸以外の絵、それも猫作家なのに猫でもないサトリ画を発表した。全くのお門違いをさせてもらったわけだ。川は湧き水から海だって川だ。おかげで海のあっちの霞が晴れたような。今はあっち意識で描く絵も面白い。これは二足草鞋的だ。考えて見れは何十年とズーっと二足草鞋のような、いつもこっちかあっちかの岐路に立っていた。一つにまとめたいのだがなかなかうまくいかない。だいたい目も耳も鼻の穴も胸も手も足も金玉もなぜか二つずつある。口は一つだが入口だとすれば下に出口があるから二つだ。ではチンチンは? 一本しかない。しかしこれはマンマンと対になるから空間を隔て二つだ。『二』とは世界の実際をどちらか一方に偏らせがちな人間に対する気づかせメッセージなのかも。これは一つだと思ったとき、もう一つは必ずどこかに潜んでいる。ではこれら二つの中道は一つ? 人間はそれを見ることはできない。プラスとマイナスの和のように消えてしまう。
 そうそう昨日、警察が来たと思い捕まるまいと逃げ道を探していたら、花輪くんだった。彼は躁鬱眠れない体質。彼に絵をいろいろ見せて思ったのは、こっちやあっちがない。どちらかというとあっちの絵を大いに好む。彼は二足草鞋どころか裸足いや裸だと思った。眠てないせいで現実なのか夢なのか、荘子の『胡蝶の夢』そのものなのかもしれない。




 

2025年12月24日水曜日

[9024] 自由

 ●自由
焼き物でも絵でも料理でもなんでも
全ては手作業の結果だ。
子供にクレヨン持たせればわかる。
いたずら書きをし始める。
目の前が色とりどりに変わる。
すると楽しくなる。
自分が変わったのだ。
最初に手の行為があるのだ。
手を使用すれば自分も世界も変わる。
世界を変えるには理屈ではなく
手を使うことが一番手っ取り早い。
手に銃など持たず自由を。
そして後ろ手(別名足)で歩こう。





2025年12月23日火曜日

[9023] 偽物と本物

 ●偽物と本物
 カッコつけマンを気色悪く感じるのは本物を知っているからだ。
 この社会にオリジナリティはなく真似か借り物、コピー、泥棒、二番煎じ、他人の褌で相撲を取る。遺伝子だってコピーだ。全て本物ではない近似値だ。そこで不安が過ぎる。サトリ三部作が泥棒に盗まれるかもしれない。昔、猫仏を偉いコラージュ作家に真似され、それが本になった。あの時はずいぶん悩まされた。また展示会におじさんが現れ抱っこしている猫の写真を出して「権利を買わないか?」と言う。商標登録しているらしいのだ。ほんと姑息な連中がわんさといる。社会そのものが借り物偽物文化蔓延だから仕方ないが、こんなことを思うのはつまりオレが泥棒だからだ。自分は昔の招き猫を現代に蘇らせたとは聞こえがいいが、ただの悪賢い泥棒だ。
 さて考察。自分の作風の底辺には本歌取りがある。本歌取りとは所詮泥棒。しかしこんなバカなことで自分が悩むということはそれだけ自分にはそこを脱するエネルギーがあり、向こう側があることを確信しているからなのだ。悲願は彼岸。ならば向こうへ行けばいいのだ。
 さて向こうとはコロナ禍の時、死が過ぎり、アトリエに籠り自問自答した。これまで「これが私だ」と言える作品はあるのか? 答えは「無い」だった。それならそれを導き出そうと発見したのが『わ』の図だ。しかし『わ』の図にしても物だから盗まれる。そこで自らが『わ』の図になればいいと坐禅になった。坐禅は物でも思想でもコピーでもない単なる行為だ。坐っているだけだから寝るや歩くと同じで真似されようが盗まれようがそれは人間の行いの一つに過ぎない。却って広まっていい。だから坐禅は不安が微塵もなく大安心のど真ん中なのだ。サトリ画も出したし、そろそろ『わ』の図の発表する時期が来ているのかもしれない。







2025年12月22日月曜日

[9022] 如来の手

 ●如来の手
 映画監督のチャウ・シンチーはふざけたいいやつだ。『少林サッカー』でチャウとヒロインが木の下で語るシーンが腹抱えて笑える。ところで『カンフー・ハッスル』で最後に戦う敵が杉本博司さんにそっくりなのだ。めちゃくちゃ強い。どう足掻いてもチャウは勝てそうにない。チャウに感情移入してしまう自分がいる。しかし映画だからね、最後はとうとうやっつけるもんね。その技が如来神掌、手だった! 猫の手を借りて仕事してきたし、やはり手ですね。




 

2025年12月21日日曜日

[9021] 手作業

 ●手作業
 十牛図『尋牛・見跡・見牛・得牛・牧牛・騎牛帰家・忘牛存人・人牛倶忘・返本還源・入廛垂手』
 自分探しに向かう話を10段階に示したものだ。ここで面白いのは『尋』で始まり、最後が『手』だ。
『尋』とは質問のこと。子供はなんでも質問する。答えを欲しがっているというよりただ質問する。地面を触っていた四足の前足が地面を離れ道具を使うことで地面以外の世界を知る。それが『手』だ。『手』は脳を発達させた。後ろの手で移動もできる。そして大きくなって『尋』の答えを与えてくれるのは思考ではなく『手』だと知って手作業すれば幸福が手に入る。





2025年12月20日土曜日

[9020] アメリカ

 ●アメリカ
 益子もえぎ本店大塚さんが午前9時に到着。益子から5時間。展示した作品を下ろし「次はアメリカですね」と老人を相手に未来を前向きに語る。そしてもう帰ると言う。「疲れないの?」と聞いたら「全然」と言って10時半には帰った。スゲェ! 
 30歳の時、美大も出ずアートなど全くわからずただノリと運だけで英語などできないのにNYで2回展示会をした。結果、叩き潰された。このことは旅行記『無我の意図』に書いた。そん時たまたま入ったギャラリーの作品に感動。聞けば日本人、杉本博司。益子でやったサトリ画は彼の作品と同じステージに立つものだと思っている。やっぱ、そこ極めるか! 
 昨日は十牛図がよぎり、これからはのんびり招き猫でも作って好好爺ィになろうとしていたのに、撤回、ノリでも運でもない本物の実力『サトリ画』を発表しちゃったことだし、しょうがない、軽く世界制覇しようかな。





 

2025年12月19日金曜日

[9019] 十牛図の手

 ●十牛図の手 
 絵が自由に濁りなく描けている。ふと『十牛図』が浮かんだ。
 サトリの部屋は「猫から猫でない」になった証の空間だ。これが人生最大の難関だった。それだから生涯最高の個展なのだ。サトリ部屋がそのまま十牛図8番目の『人猫倶忘』だと思う。猫だけど。9番目『返本還源』はまぁ自然に還って庭いじり。10番目『入廛垂手』は自由自在、ここに『手』が入っているのが興味深い。庭いじりも粘土も手を使う。箸を持つ手、お茶を淹れる手、草刈る手、抱きしめる手、撫でる手、バイバイする手、文字を書く手、祈る手、涙拭く手、料理する手、創る手、描く手…、自由自在の『自』とは「自分の手」なんだと気付かされた。広くは身体ということ。『十牛図』は「借り物である思考に気づき、行為する自分の手に向かう」教えなのだと思う。