2026年9月1日火曜日

[9275] 良心の不在

 ●良心の不在
両親を亡くし、私は「良心の不在」を目の当たりにした。相続は家族内の問題であり、なかなか表には出ない。とくに田舎では、家族の恥、とりわけ金銭にまつわる話を他人にさらすことは避けられる。被害を受けても声を上げにくい。すると、傷ついた側が悪いかのように扱われ、した側が正しいという空気さえ生まれてしまう。そんな考えが広がるのは、あまりに危うい。
今はカード決済が当たり前になり、値段を「負ける」という感覚が見えにくくなった。これからの世代は、「負けるって何だろう。昔はそんなことがあったのか」と思うかもしれない。負けることを認めなければ、勝つことだけが価値になる。そうなると、勝つためなら何をしてもよい、勝てば官軍だ、という考えに傾く。『負けるが勝ち』はもう死語になってしまったのだろうか。
9年前に父を亡くし、今回、母を亡くした。多くの親は、子どもたちが苦労しないようにとお金を残す。子どもが3人いれば、3等分する。それが平等心ではないだろうか。
父は野心家で、義侠心があり、芸術への魂を持っていた。そして「森」という名を残すことにこだわっていた。私も69歳になり、それを残すことに少し関心を持つようになった。ちょうどその頃、面白い建造物の作品案が降ってきた。実現には資金がいると思っていた矢先、大げさに言えば、私は相続がゼロだった。
母は本当に一文なしだったのだろうか。貧しかったのだろうか。私は、いつの間にか妙な争いに巻き込まれ、負けてしまったのだ。
私はかつて『手から産む』という作品をつくった。手を動かして生計を立てることに誇りを持っている。作ったものを欲しいと言ってくれる人がいて、その対価で暮らす。私にとっては、とても単純で自然な流れだ。
作品が多く売れれば、そのお金を生活空間や新しい制作に注ぐ。本を読み、庭仕事をし、真理を探究し、新作に挑戦するために時間とお金を使う。持ち家もあるが、私にとっては「家猫」という名の巨大な作品だ。引きこもりがちな性格なので、旅行にもほとんど行かない。贅沢には興味がない。消費社会の価値観からは、少しずれている。
自然の中に身を置いているときのほうが、真理のようなものが降りてくる。だから私は、世間の金銭にまつわるアレコレにはほとんど無知だ。だから負けた。
世の中には、多くの被害を受けた人がいる。恨み、つらみ、悔しさ、嘆き、悲しみ。これまで私は、庭とアトリエにこもり、世間とあまり関わらずに生きてきた。けれど今、その人たちの嘆きが少しだけわかる。
だからといって、恨みやつらみに囚われたくはない。しかし、忘れることも簡単ではない。感情が沸騰することもある。それが人間だ。なぜなら、「勝った者が正しい」という誤った考えが広がれば、「金・詭弁・権力」が正しいものとして扱われる。それが人々の生き方の中心になってしまう。
だが、はっきり言う。「金・詭弁・権力」は、人の中心ではない。
世間には為政者がいる。彼らの中には「金・詭弁・権力」が中心だと思い込み、勝ち誇る者もいる。大衆もまた、そのおこぼれにあずかろうとして、口車に乗せられる。国から町へ、村へ、そして家庭へ。そんな思想が浸透していく。
私は、家族の中にまで浸透したその思想に負かされた。両親を亡くして、良心の不在を知った。そしてある意味心の拠り所を失った。
中心とは、読んで字のごとく「心の中」にある。「心」とは、初心、良心、慈悲心、平等心のことだ。なかでも初心は大切だ。初心は、何にも侵されず、何にも汚されていない。山奥の湧き水のようなものだ。
初心を忘れたとき、人は「金・詭弁・権力」の下に心を置いてしまう。本来、心は広大であり、人間の浅はかな「金・詭弁・権力」などの下には付かない。しかしこの社会では心は小さく扱われ、権力への依存心や商売心へと心は変わっていく。それが良心の不在だ。
会社や税といった仕組みが、人を支えるためのものではなく、人を惑わせる主体になってしまう。
主体は人である。その人の心である。中心に心があり、会社や税はその周辺にあるべきだ。税や会社が先にあって、人がその奴隷になるのではない。
私が望むのは、家族や身近な知人にまで入り込んだ、人の心を蝕む汚れを取り除く。社会の仕組みや税という巧みな制度も、いったん心の中心から外す。そして、子供心のような初心で、もう一度ものを見ることだ。
そうなれば金や社会に疎い私のような人間でも誰でも、物事をゼロから考えることはできる。そこから考えなければ、身近な人たちの心は初心を忘れ、邪悪さに染まり、飲めない水のように濁ったままになってしまうだろう。
世間から離れ、自然の中に身を置いてきたからこそ、私は人間の汚れた思考に違和感を覚えた。
これが今回、私に降ってきた智慧である。
『負けるが勝ち』。



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