2021年2月17日水曜日

[7356] 幸福感

 ●幸福感

 この間の絵日記に「雪掻きで知ったのは、金で買える快楽ではなく、金で買えない幸福感だ」と書いた。この『幸福感』についてもう少し考察してみた。

 僕は時々、幸福感に包まれる体験をする。二十代の頃から始まり、どういった時に包まれるのかを考察するようになった。そのうちそれが子供の頃からあったことがわかった。誰もが幸福感に包まれているのだが、現実の忙しなさに忘れているのだろう。呼び戻したいものだと思った。

 例えば都会の誰もいない公園のベンチに座って、遠くで車のクラクションの音がすると幸福感に包まれる。肌寒い時に、斜め上から左頬に暖かい日差しが当たると幸福感に包まれる。夕方5時ごろ銭湯にでも行こうかなと思い商店街に出た時に幸福感に包まれる。山形では酒屋さんで夕刻になって、オレンジ色の電球の色が目立ってきて子供達が学校から帰って来るのを見ていると幸福感に包まれる。最近では薪を取りに小屋に入って、薪に触った瞬間に幸福感に包まれる。このようなことが結構頻繁に起こるが予想はできない。

 さて幸福感とは何だろう?

 今いる社会での幸福とは『食欲、性欲、金欲』などの快楽とつながっている。あと家庭でも職場でも人間関係が潤滑なら幸福である。しかし僕が体験した幸福感はこれら3大欲望や人間関係とは縁がない。幸福感に包まれた時、3大欲望などどうでもいいものになるからである。また円満な人間関係の幸福とは違った感覚だからである。3大欲望や人間関係を超えているのである。昔の人はこれを至福と言ったのだと思う。3大欲望は適当にした方がいい。どうせ人間は欲深いから黙っていても欲からは離れられない。その程度でずいぶん楽しめる。

 3大欲望は度を越せば快楽の裏にある苦痛が出てきて本体を悩ます。3大欲望が度を越すとは麻薬のようなもので、麻薬に支配されてしまうようなことなのだ。支配されると言うことは檻の中に入れられるようなものだ。それが苦痛になる。恐怖になる。

 快楽と苦痛は前と後ろのようなもの。前・後は切っても切れない関係だ。だから後ろの苦痛を避け前の快楽に向かって欲するようになる。「都会を向かない」と言ったのは都会とは3大欲望の仮の名だからだ。そこを向かないとは、前後で言えば前を向かないことになる。前を向かなければ自ずと後ろも向いてない。この意識の時に幸福感に包まれるように思う。ところで後ろがないせいか、幸福感には苦痛も恐れもない。だから快楽とは異にするものだ。また快楽と違って幸福感に学力も努力もいらない。

 それから幸福感に包まれる時は一人である。親や恋人や子供など他人が与えるようなものではない。他人がいても他人も自分も風景に溶け込んでいて居ないのだ。包まれているわけだから、その包みからエゴを剥き出していない状態なのだろう。エゴを剥き出すとは心ここに在らずに、どこかにベクトルが向いていて、包まれておらず、そのベクトルの先にある欲望の結果に支配されているということだ。時間で言えば未来に支配されて、今を生きていないようなもの。だから好きなことをやれとか言うが、それで得られるのは幸福感ではなく快楽だ。「都会を向かない」、つまりここから逃避しないことなのだ。人間の間違いは3大欲望が幸福感を与えるものと思って、3大欲望を満たそうと躍起になる。そこには幸福感はない。もう一度言う。

 『幸福感は3大欲望を超えたもの、二の次が3大欲望なのだ』

 だれもが味わえるこの幸福感を知って、それを過去や今や至る所から呼び戻し、包まれてくれればいい。包まれていればどんな苦労も問題も大したものではない。なぜなら幸福なのだから。



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