●依存
依存とは片方だけでは存在しない。
例えば上・下という二元があるが
上も下も相手があって成り立つので
片方だけでは実体はない。
●展覧会案内
『ネコマチ商店街』
2023年3/10〜3/20まで
ハンズ名古屋店
10Fイベントスペースです。
よろしく。
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ちなみに昨日の絵日記の
『A:我、B:無我、C:無我の我』
を坐禅で例えてみました。
A:「坐禅なんか意味ない」
B:「意味ないは意味ある」
C:坐禅をする
ってことで坐禅をしています。
●ABC
大きくなったり
グループに入ったり
金を持ったり
物知りになったり
名が出たり
地位を得たりすると
人は立派なことを言う。
これを「飯足りて調子こいてる」と言う。
A:我(分別心)
B:無我
C:無我の我
人の心はAからB、
BからCへと進歩できる。
しかし全ては無常なので、
Cはそのままではない。
Cも調子こいてAになる。
*Aが本来の自分を見失っている自分で、Bがそんな自分がいなくなって、Cが本来の自分ですね。
●湧水を汲む
早朝4時。僕は薄暗いアトリエで、坐禅の前にカップ一杯の白湯をゆっくり飲む。体をほぐす体操を20分ほどする。それから両手・両膝・額を床につけて下記の『四弘誓願』を小さな声で言う。
「衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道無上誓願成 」
意味は簡単に言えば「みんなの苦を取り除き(利他)、自分の迷いを消し去り(自利)、山程の教えを学び、悟りに至ることを誓います」と言うもの。
僕はこれを「みんなに浄く澄んだ水を飲ませるために、とても静かな山奥の湧水があるところに出かけ、湧水の周りや川を掃除し、水がいつまでも流れ続けるように誓います」と理解する。この四弘誓願を言うと、不思議なことに、一瞬のうちに、幸せな感覚に包まれ善人な自分になる。
請願のあと、壁を前に坐蒲に半跏趺坐で座り、背筋を伸ばし姿勢を調え、口は閉じ鼻呼吸、臍の下の丹田で呼吸している感じにする。目は閉じず開かず壁を見、視線を少し落とす。
終わったあと、軽く身体をほぐし、両手・両膝・額を床につけて土・水・火・木。金、立ち上がって東西南北上下全てに手を合わせ感謝する。
浄く澄んだ水の流れは、日常雑念が多いので夕方までには汚れたりする。
次の朝、また坐って、山奥の浄く澄んだ湧水を汲む。
●落とし穴
最近、会う人会う人が量子の二重スリットと言うので、流行りなのかしら? 調べて考察してみた。
まず人間は物事を観念で理解する。しかしそこには落とし穴がある。感情的になったり思い込みだったりするから誤解してしまうのだ。では感情を排除し概念化し記号化や図式化して数学や科学で理解する。例えば「生」を1、「死」を0とかにする。しかしそこにも落とし穴がある。観念側の意見としては記号でしか生死を理解できないのは無慈悲だ、冷徹だとなる。そんな主観的な感情を無視して、客観的に正確に判断しようとしたのが科学なのだから、今更そこをぶり返したりはできない。
しかしその科学も量子の二重スリットでの不可解にぶつかっている。
二つのスリットがあり、そこに一個一個粒子を飛ばす。スリットを通って粒子が向こうの壁に当たれば、二本の線が出るはずなのに、干渉して縞模様が出る。面白いことに人間が観察すると干渉がなくなり、観察しないと干渉が出る。時空間がないとか。不可解な話だ。これってまるで禅の公案にあるような話だと思った。人間は何千年と同じ問答の中にいて全く変わってないんだね。
さてと僕の考えでは『二つ』がキーだね。二重スリット・粒子と波・観察者と観察されるもの・主観と客観、それに人間の思考は二元論だ。そこで先の落とし穴を智慧で、後の落とし穴を慈悲で覆う。あと科学者は坐禅したらいいと思うな。これで解脱だ。
●in
『個人主義』は英語でindividualismだ。前にも書いたが、もう少し深く考察してみた。
『個人』はindividualだ。dividualは「分離した」という意味で、これにinがつくことで否定になり、「分離できない」になる。また『自立』はindependent、dependentは「依存」で、それにinがついて否定になる。
つまり重要な『個人』や『自立』には本来の単語がなく、反対のものの否定系で成り立っている。「分離」や「依存」こそ『個人』や『自立』を否定したもののはずなのに。
ところで否定の接頭辞にはdisやunなどあるのに、なぜinなのか? inには「中に包まれる」という意味がある。
坐禅のあの妙な足の組み方が浮かんだ。左の太ももの上に反対の右足を乗せ、右の太ももの上に反対の左足を乗せ包み込む。まさしく否定して包み込むinのポーズだ。
英語にこんな言葉があること自体が不思議に思ったので、この間アメリカで出家したばかりの慈慶さんに聞いたら「英語の語源のひとつにサンスクリット語がある。仏教の話にちょくちょくサンスクリット語が出てくるんだけれど、ある概念を否定する、さらにそれを否定するみたいなことができる言葉の構造みたい」ということ。面白い!
ではサンスクリット語ではなぜ『個人』『自立』を「分離」「依存」の否定系で表現するのかを考えてみた。個人をin +dividualとすることで、視覚的にも聴覚的にもそもそものdividual「分離」が含まれる。つまりこれによって『個人』が点としての意味合いではなく、肯定から否定へ流れる陰陽の輪の意味合いになる。
これだね。すごいな、サンスクリット語って。だったら日本語も『個人主義』というものを『無分別主義』として考え直した方がいいと思う。
わかったのは、『個人の自立』は世間のあらゆる分離や依存の思考の否定inにあるということだ。