●冬支度終了
残りの薪割りも終え、
庭のライトも撤去し、
冬支度全て終了。
ところでやっぱ坐禅はいい。
藤原画伯は坐禅用座布団を買ったらしい。
この間の矢萩陶芸家も坐禅に興味を持った。
最近数人が座禅に興味持ち始めている。
浮き沈みの思考や左右の揺れや明暗の迷いなど
全て解けて去ってしまう。
坐禅という基本を知るからです。
●冬支度終了
残りの薪割りも終え、
庭のライトも撤去し、
冬支度全て終了。
ところでやっぱ坐禅はいい。
藤原画伯は坐禅用座布団を買ったらしい。
この間の矢萩陶芸家も坐禅に興味を持った。
最近数人が座禅に興味持ち始めている。
浮き沈みの思考や左右の揺れや明暗の迷いなど
全て解けて去ってしまう。
坐禅という基本を知るからです。
●展覧会『日々福』案内
『日々福』366体展示します。
◎めでたづくし×百段階段
期間:2023年1月1日〜3月12日(日)
*休館日:1月30日(月)、1月31日(火)
場所:ホテル雅叙園東京 百段階段
https://www.hotelgajoen-tokyo.com/100event/medetazukushi
制作期間5ヶ月、今年最大の仕事でした。
万年カレンダー作品集になりました。
よろしくお願いいたします。
これが完成して昔のことが過った。大作『猫神様』を発表してのち、坂東さんに「猫神様を超えるもの」が見たいと言われ、大いに悩み、思考が前にも後ろにも働かなくなり、苛立ったことがある。一生懸命考えて猫神様を超えようと違った大作を作った。それ以外にもいろいろ作った。その都度猫神様を超えた作品だと思うのだが、やはり質問の答えになっていない。なぜなら超えたら終わりではなく、「それをまた超えるもの」という課題が永遠に続くからだ。質問の答えは永遠に決着つかない。その問いは永遠に消えないのだ! 最終的には歳を取り「超えられなかった」という答えしかなくなる。それは不愉快だし不満だ。これは底なしの泥沼のような問答だ。
さてこの泥沼の問答だけど、やっと解けた。今回の『日々福』だ。これは猫神様のような特別なものでもそれを超えるものでもない。僕にとっては日常でごく自然なものだ。どこか遠くに神はいなかったのだ。
●新しい絵
座禅していて、
活力が出てきそうな新しい絵が降ってきた。
前に描いた作風で、ペリペリの剥ぐ、ナイフの傷、
滲みや染み、そしてその反対の弾き。
これらの行為にはほとんど作為が入らない。
なのに一瞬一瞬、感覚が研ぎ澄まされる。
これって坐禅だね!
タイトルを『座禅』にしようかしら。
まずはペリッと剥いだ。
●ヒーラーとファイター
初めて会った感じのいい青年
職業は?
「ヒーラーです」
ヒーラーは癒し人
ファイターは戦う人
人間の内面の二つの性質なのか?
フロイトは『エロスとタナトス』
宮沢賢治は『春と修羅』
●言論の自由
『言論の自由』という言葉があるけど「悪口や差別、何を言ってもいい」と理解してしまいがちだ。それは自由そのものを勘違いしていると思う。僕は『自由自在堂』と言う小説書いたから、少しは自由について掘り下げたつもりだ。
自由が身についた者なら悪口など吐かないと思う。なぜなら悪口を言われる自由も持っているからだ。わざわざ自分に悪口を言う必要はない。裏を返せば殊更に自分を褒めるようなものと同じで、それは自惚れだ。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の「褒められもせず苦にもされず」とあるのは、自分で自分を褒めもしなければ苦にもしない。つまり自惚れないし落ち込まない、平常心でいると言うことだと思う。悪口など言っていたら心煩わしくなって平常心でなくなる。坐禅では平常心が養われる。そこは自由の境地だ。だから「自由の者は悪口を吐かない」になる。自由になりたい者が悪口を吐くのであって、今、その者は自由でない。唯、甘えていい気になっているだけだ。つまり「悪口は自由ではない言葉」なのだ。
ふと浮かんだ、下記。
「オレオレオレって、オマエは」
「オマエオマエオマエって、オレは」
「偽物偽物偽物って、本物は」
「本物本物本物って、偽物は」
「バカバカバカって、小利口は」
「利口利口利口って、小バカは」
●本元
『わ』の中には全部含まれている。
否定も肯定も善も悪も。
『わ』を心底願って生きていれば、
否定されようが肯定されようがどうでもいい。
良いことなどする必要はない。
悪いことももちろんすることはない。
分断した何かが『わ』ではなく、
分断した全ての本元が『わ』だからだ。
分断した人の思考では及びもつかない。
座禅もそうだが、
あっちこっち超えて『わ』が全て整えてくれる。
『わ』をしてればいいのだ。
それは二元に気付けばいい。