●雪割り
春を促す雪割り。
●生きる
イイ言葉は読んで解っても忘れてしまう。それで何度も何度も読み返す。生きてないものは人の欲の手に入るけど、本物は生きているから捕まえられない。捕まったらそれではなくなってしまうからだ。だから尚更欲しくなる。愛とかでもそうだけど愛の付属品は手に入る、けど生きた愛そのものは手に入らない。「愛に包まれる」とか「愛は全て」という言葉があるように愛は巨大なのだ。個人の不足を補えるほど小さくもみみっちいくもない。その代わりだと思って手に入るのは金ぐらいで、でも金で本物は買えない。なぜなら買えるものは生きている本物ではないからだ。例えば『分からない』は分からないから魅力的だ。『分からない』を分かろうとしても、分けたら『分からない』ではなくなる。だから『分からない』はいくら頑張ってもいくらお金をかけても分からない。金で買えるのは小さなもうすでに死んでしまった『分かる』ぐらいのものなのだ。
ところで僕はイイことを知ったら書き写したり諳んじたり、自分の経験に照らし合わせて吟味し自分の言葉に置き換えたりしている。インプットするだけでなくアウトプットとして絵日記に書く。何度も何度もイイという新鮮な空気を吸ったり出したりしているのだ。これで生活も呼吸が大事な坐禅になる。つまり己がイイ呼吸をして本当に生きるになる。
●ピチョン
夜中に目が覚めトイレに行った。喉が渇いていたので洗面所でコップ一杯の水を飲んだ。そしてベッドに入った。すると「ピチョン、ピチョン、ピチョン」と水が滴り落ちる音がする。聞いているとまるで水琴窟のような反響音だ。そのうち止むだろうと思ったが、止まない。仕方なく起きて洗面場に行って蛇口を固く閉めた。ところがまだ「ピチョン」と音がする。風呂場かなと思い風呂場に入って耳を澄ます。音が小さい。台所かなと思って行ってみた。音は小さい。トイレかな、違う。耳を澄ましながら「ピチョン」の鳴る方へ向かう。寝室が一番高い音がする。外だろうか。いや違う。SSのベッドだ。寝ているSSに耳を近づけた。ここだ! SSの寝息だ! なんだぁー!
●思い
坐禅していると、いろんな『思い』が出てくる。『思い』はほぼ自分にとってイヤなことなので、自分が幸せになれることを考える。でも幸せになる方法なんて、お金だったり政治権力だったり永遠の命だったり、実際それらは妄想だ。それらが幸せにする保証なんてないからだ。
所詮、政治家も大金持ちも人気者も美男美女も表面が良さそうに見えるだけで歳はとるし、病気にはなるし、死は間違いない。内面はみんな苦しんでいる。
ところで嫌な思いの頭で幸せを考えても幸せのアイデアは生まれない。バカがいくら考えてもバカな考えなわけで利口なアイデアなど出ないのと同じだ。まぁ利口も誰かと比べりゃバカだから、利口にだって幸せのアイデアはない。ネットにも本にもない。そんな簡単に情報になるようなら誰も悩まない。つまり人間の『考え』には幸せのアイデアなどないのだ。
さてそんな『思い』など放っとく。それが坐禅だ。これでイヤもイイもない。静かに坐禅ができる。
●探す
迷妄していると
腹立つ話を探す。
幸せな話を探す。
儲け話を探す。
でも話はほぼ戯言だ。
本物から離れてしまうだけだ。
絵描きで言うなら、いい絵は他所にはない。
外の誰かのどこかの絵を追ってもダメだ。
本物のいい絵は自分の内部に在る。
内部こそ宝の海。
探す必要などない。
*ちなみに探究心とは
「物事を見極めようとする心」です。