2018年11月20日火曜日

[6537] お裾分け

お裾分け
 腱鞘炎でしばらく手が使えないので、頭は新しいペリペリアイデアでいっぱいだ。ペリペリの重要性が明確になっている気がする。既成を剥いで新鮮になるという精神が生まれ変わるような豊かな行為や概念だから当然だ。
 しかしその頭の中のイメージ、それは厄介だ。
 頭は物事を分けて判断するので明確を装っていることに気づかない場合が多い。自分が利口と振る舞いたいのでバイアスがかかる。それとは対極の身体は利口ぶる頭がない代わりに、出来る出来ないや身体ならではの創造があり快感を知っている。その快感を頭にお裾分けもできる。喜びで言うなら、頭のアイデアでは身体が喜ぶかどうか不確かだ。身体が頭の手下や奴隷としての抑圧された喜びならば、その喜びは他との関係を作れないから閉じている。身体が頭から解放された開いた関係性の中での喜びなら、お裾分けによって頭も身体も心地よい。
 アート場ができて、いざ制作に取り掛かった時、頭はリーダーとして最初だけ参加してもらい、その後の作業は身体がメインだが頭と身体のコミュニケーションが始まる。これまでの経験上、意外な展開になり全く思いもしなかったものを発見するだろう。
 ところでお裾分け、裾そのものは足の近くにあるものだから身体の下、そこから一番上に位置する頭へのお裾分けは頭のプライドが許さないだろう。そこで科学や文化が必要になる。
 だからこそ物事を進めるのは困難に思えるが、作品制作においては、個人の頭と身体の相互作用に気づき展開することで、閉じて強張ったものが溶解する喜びを味わう。
 それを人間社会へお裾分けする。

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