2017年1月31日火曜日

[5879] アニミズム

●アニミズム
 日本ではアニメが盛んだ。アニメはアニミズムと語源は同じだと思う。アニミズムはあらゆるものに霊魂が存在するという原始宗教らしい。でもここで原始宗教とか言われているが、それはキリスト教からの考察だと思う。キリスト教は唯一神だから他の宗教や信仰を排除するか、あることを認めたとしても横並びではいけない、他は下位なのだ。そこで原始という名をつけて古いものとしてしまったのだと思う。もしかしたら古くないし、地に落ちたわけでもなく、これから肉付けされる新しい観念かもしれない。今、日本からマンガやアニメが世界に膨らんでいることを鑑みれば、この多神教的アニミズムはずいぶん現実的で革新的のように思える。
 僕はアニミズムを高く掲げ自分のコンセプトにしようなどという言葉で絵を括るような情けない真似はしないが、心の深部にアニミズム的要素が潜んでいて、最近は頻繁に顔を出し、絵に神秘性や柔軟性を与えてくれているような気がする。

2017年1月30日月曜日

[5878] 猫の首っ玉

●猫の首っ玉
 客人が来た。チョコビッチが彼の座っていた椅子に噛みついた。これはうちでは日常のことだ。なんと、彼はチョコの首っ玉を掴んで、さも猫の扱いに慣れているように持ち上げ抱いて撫でた。この行為は僕の気分を害した。しかし悪気はない人なので放っといた。でもちょいと気になったので考察。
 この家にいる猫は僕にとって大事な息子や娘だ。猫を飼っててもただの装飾品としての猫やその性質からネズミ退治としての猫やただ家に居着いてしまって居るだけという感覚で猫を飼っている人には、拾ってきたただの猫が我が子というこの感覚は理解できないのかもしれない。国が国民を兵士や労働者として扱い個人としては重要視してないように、チョコは彼にとってただのその辺りの猫に過ぎないのだろう。解らないでもないが、この家は猫の形だし、僕は20年以上のキャリアを持つ猫作家で、数多くの猫を飼って、どれだけの猫の情報を得、どれだけの猫の死を見つめ、どれだけの猫の詩を詠ったことか。僕が普通の人より猫に思い入れが深く、猫そのものに詳しいことは解る筈だ。些細なことだけど、とても重要なのが、あなたの考えがどこでも通じるわけではない。世界にはいろんな専門家がいるわけで「郷に入っては郷に従え」を知ることだ。
 注意しておきたい。猫の首っ玉を掴むのはそれは悪しき習慣だ。子猫の首っ玉を掴むのは子猫を守ろうとする母猫だけだ。それにそれは子猫の場合で、大人の猫の首っ玉を掴むのは、それの上位に立とうとする意識、もしくは最悪の場合、動物の最大の弱点に攻撃、食らいつく猛獣の遣り口だ。


2017年1月29日日曜日

[5877] 大衆の為

●大衆の為
 今まで自分が二十年以上も制作してきた猫作品はポップアートとか大衆芸術の範疇だと思う。これらは作る自分が大衆が求めるものを意識して作っているため「大衆による」作品と言える。注意しなければいけないのが「大衆の為」ではないということだ。
 今年の夏の個展が決まって、自分の中から沸々と湧き出て作品化している自分自身の追求や探求としての自由な作品がある。これらは個人的だから大衆とは無関係かと言うとそうではない。大々的に発表する目的がある限り大衆を切り離して成り立つ作品など無い。これらは「大衆の為」に作られていると思う。「大衆による」と「大衆の為」のどちらが良いかという問題ではなく、己の作品の成長の過程として、今、自分の精神がこのような位置にいるということだ。
 例えば僕が住んでいる市で開催している建築コンペの審査員を頼まれて去年やった。しかし次回は辞めることにした。僕自身、誰かに審査されるなんてイヤなタイプなのに、他人を審査するなんて、自分に反している。僕が審査員をすることで市の為になると思っていたが、多少会場を面白くすることはできても、それ以上何もない。それはそうだろう、自分の心にウソついてやったことなど誰の為にもなるわけがない。好きでもない乾いた女性と市の為だから結婚して子をたくさん産んで市の人口を増やしてくれと言われても、精液の代わりにため息しか出ない。そんなことが増えれば街中にため息が病原菌のように蔓延して街は反って疲弊するだろう。それよりも僕が自分で納得するようないい絵を描いた方が、よほど市の為だし大衆の為だし世の為だ。
 僕は今、大衆による頂上ではなく、大衆の為に底辺を描いている。

2017年1月28日土曜日

[5876] あまのじゃく

去年までは猫を被っていたので、日記では人々に対してたくさんのメッセージを読みやすく構成して書いてきたつもりだ。しかし人々の深部に伝えるのは困難だった。
 人はいっぱい読むが学ばない。いっぱい書くが上っ面だけ。いっぱい語るが独りよがり。いっぱい知っているが当てにならない。いっぱい笑うがセンスがない。いっぱいものを持っているが何も得てない。
 初めから困難だと解っていたことだが、これからは名前は『もとわじん』だし、作品は『オレかぶり』になったので文章もオレかぶりに変更。
 最近、いかに人に伝えやすいブログの構成の仕方、目立つやり方などと人気取りが重要課題と頑張っている偽善者ブロガーやバカ騒ぎの偽悪者を他所に、善悪超えてオレかぶりの僕は読みやすさなど考えない、伝えやすさも考えない、クソ長くもなる、読み難いかもしれない日記を書く。わざとでなくこの方が自己探求がめざとく進歩するからだ。いつもの逆転の発想ではあるが、世を儚んだ世捨てのあまのじゃくと言った方が近いかもしれない。

2017年1月27日金曜日

[5875] 心時空

僕はたった一匹の普通のどこにでもいそうな猫に心揺り動かされた。
 当る作品や売れる作品、成功の方法論などの昨日までの考えを追究しているようなこの社会で、今、自分はそれらの上昇志向に揺れ動かされることもなく、それよりも深く儚い心情や心象や心時空を絵にしていこうとしているように思える。チョコが行方不明にならなければこんな絵など描けなかったかもしれない。チョコが外にも出ないお利口な猫だったらこんな絵は描かなかっただろう。チョコが僕の思い通りに動くロボット猫だったらこんな絵は描かなかっただろう。チョコは自由に快活に生きている。生きているってことなのだ。辛くさびしいことが多いけど、生きているとはこういうことなのだろう。
『もうけっしてさびしくはない。
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさとかなしさを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
かっきりみちは東へまがる by宮沢賢治』
 この絵はまだ未完成、なんとなくこの詩とシンクロしているように思えた。8月の個展に出します。

2017年1月26日木曜日

[5874] ありがとう

近所の魚屋さんから「茶トラの猫を見た人がいる」との情報。すぐに、うちから1km以上もあるその人の家に出かけてみる。
「すごく人懐っこい茶トラで、人を見るとニャーニャー泣いて近づいてくる。でもここ2日ぐらい見てないかな」と。
 おおおおおお、チョコビッチだ。おばちゃんが見たという辺りの小屋やビニールハウスを探す。猫の足跡もたくさんあった。もうすぐ会えると思うと涙がこぼれそうになった。最後にビニールハウスを覗いた。暖かい明るいハウスの真ん中に茶トラの猫がいた。でもチョコではないような?? ハウスの中に入り、近づいた。僕を見て泣くがチョコと声が違う。ずいぶん小さい、たぶん去年の秋に産まれた子だろう。ずいぶん人懐っこくガリガリに痩せていて、撫でてやったらお腹を出してゴロゴロした。可愛い猫だ。チョコは諦め、この子にしよう、この子でいいや。僕は行方不明になった愛しい妻を探しに旅に出たが、途中で若いもっと可愛い子に出逢ったものだから、妻は諦め、新しい若い娘とネンゴロニャンになったような。遠くでチョコがこのことを知り「ちょっと待った! そりゃあないだろう、わじんさん、わかった、帰るよ」
 じゃあ早く帰って来いよ!
 この辺りにビラを配り、家に帰ったら、電話がきた。コーヒー豆屋さんの庭に22日昼頃、猫が木に上ったりしていた。小さい茶トラではない。その後見かけてないと。木登りが得意な大きな猫はチョコだ。22日の早朝からいないわけだから、その日のうちに1km以上の地に行ってしまっていたのか。ガーン! でもどこかにいるだろう少しだけの希望が見えた。
 今春、最上徳内記念館で一緒に2人展をやる陶芸家で書家の市田さんから、「ダウジングで猫探す」というメッセージがあった。面白そうなので調べやってみた。ところがダウジングをやっているうちになぜかだんだん腹が立ってきた。チョコの情報を手に入れに潜在意識の中に入ったら、代わりに『タメ口』というものが海面に浮上してきたのだ。
 潜在意識とは海の氷山によく喩えられる。海に出た氷山の一角が顕在意識で海の中にある巨大な氷が潜在意識だ。潜在意識は無意識とかとも言うのだろう。僕らの日常は顕在意識で生きているように思えるが、底にある巨大な潜在意識の力に左右されている。その潜在意識は他の全ての動物と繋がり、細胞や宇宙、宮沢賢治の『アラユルコト』だと思う。
 僕の心身はほぼ100%がアートで生きている。僕はいろんなアーティストを尊敬している。尊敬している人に対してタメ口はきかない。そんなことをしたら嫌われる、アートから嫌われる。それは面白くない。アートは知覚の根っこであり、この科学文明社会の深くに隠された神髄である。『タメ口』とは、その神髄を小さな自分の器の中に入れて小さく扱う無礼な人間の高慢さだ。そのアートの神髄があるところが潜在意識だ。そしてチョコは巨大な潜在意識からたまたま顔を出した猫という動物だ。だからチョコもアートの神髄である。僕はそのチョコをまるで自分のモノとして小さなモノとして考えている。広大な潜在意識でありアートの神髄を、己より小さなものとして考えているようなものだ。一回Hしたから、この女は自分のものだと自慢し触れ回るバカな若者のように、女性の心を、潜在意識を捨てているような意識だ。一回二回会ったからってアーティストが身内になったようにタメ口や馴れ馴れしくする、アートの神髄を台無しにする意識だ。自分のためにチョコがいるのではない。自分のためにアートがあるのではない。自分のための潜在意識ではない。チョコやアートや潜在意識の中でダウジングの振り子のように小さく揺らされ左右されているのが己だ。チョコやアートや意識のほんの先っちょに自分がいるだけで、人は何もこれっぽっちも解ってない。自分も含め、これら人間の持つ傲慢さに腹が立ったのだろう。
 ダウジングをやって、思うようには何もならなかったが、自分の小さな器にチョコを入れようとした自己中心的な意識を反省させられた。『タメ口』に対して『親しき仲にも礼儀あり』が諭す言葉だ。そうか、チョコは小さなモノではない、そう思った。確かに弱き小動物だが、こんなに心左右させられるなんて、猫は小さなものではないということだ。逆に己が大きなものだと思っていることが自惚れなのだ。つまり『諦め』のようなものがふと僕の心の中に浸透し、昨日一昨日よりも少し清々しさを感じた。青く晴れた雪景色が奇麗に見えた。チョコはこれでいいのかもしれない。
 夕方遅く、いつ帰ってきてもいいように隙間を作っていた玄関のドアが大きく開く音が聞こえた。二軒隣りの青柳さんが「小屋に猫がいる。嫁さんが捕まえている。来てくれ」と言う。また誑かすチャチャだろうと軽い気持ちで懐中電灯もって出かけた。なんと本物の生きたチョコだった。僕は嬉しさに雪に崩れ落ち、大声を出して泣いた。僕の頭の上の木の枝でチェシャ猫がニヤニヤ笑っていた。ありがとう。チョコは間違いなく帰ってきたのだ。青柳さん、ありがとう。チョコ、アートの神髄、潜在意識よ、ほんとにありがとう。

2017年1月25日水曜日

[5873] 旅

呼べば答える人懐っこいチョコビッチでも、もしや、倒れていたり、声が潰れていたりすれば反応できない。アニニョンはネズミホイホイを身体にくっ付けて帰ってきたことがある。農家にはネズミホイホイやネズミ取りの毒入りエサだってある。もしかしてと考えたらドキドキして息苦しくなった。
 日中、近所の全ての小屋を開けて見せてもらう。とりあえず近隣の小屋にはいなかったので安堵。ではいったいどこへ、心はまごつくばかりで、この雪空のようにちっとも晴れない。
 猫共はなぜにいなくなるのだろう? 青年期、冒険がしたくなるのか。引き蘢り性の僕でさえ何を求めたのか、そういう性質が備わっているのか、青年期に何度か一人旅に出て、運良く生きて帰ったが、ヤバい経験をたくさんした。親の心配なんかこれっぽちも考えていなかった。チョコと同じだ。進化の段階で海を出て地上に、動物とはそういうものなのだろう。
 人は世界を狭く固定しがちだ。だから思い込みや固定概念や集団の考えにハマりやすい。そんな時、人はそんな疑似安定から外へ身を投じ、思いも寄らない世界の広さと同時に己のちっぽけさを体感せねばならない。己と世界がイコールだからこそ、偉大さと謙虚さを身につけることができる。部分に身を置いているだけではダメなんだ。
 万策尽きた。チョコビッチは旅に出たのだろう。あとは待つしかない。