2017年3月7日火曜日

[5914] 腑に落ちた

●腑に落ちた
『猫かぶり』の僕は猫の神仏を作り、これ以上ない猫を被った。その作品をもって全国で猫のお祭りをやることで、大々的な猫を被った。猫の家を設計し建て住んで、これ以上ない大きな立体作品の猫を被った。もはや完全に猫かぶったわけだ。
 さて今日まで二十年以上もの間、『猫かぶり』をやってきた。しかし自分の中にずっと違和感があった。そこにひょいと現れた作品が『オレかぶり』だった。「やった!」というわけわからん感動があった。この感動は何だろう? これは一時的なものではない。そこにうまいこと個展の話がやって来た。立体や平面で『オレかぶり』を数点作ってみた。
 そして気付いた。
『猫かぶり』とは「本性を現さず、大人しそうに見せること」
『オレかぶり』とは、その「本性を現すこと」
 まあこれが真っ当な考えだ。
 でも違った。
『オレかぶり』とは『猫かぶり』が『猫をかぶらない』ことなのだ。
 昨日の『オレかぶり』=『ゼロかぶり』から『オレ』=『ゼロ』だ。
 つまり『オレ』なんていないのだ。
 自分の小説『自由自在堂』の中に「『作る』『作らない』、『ある』『ない』、『我』『無我』‥‥」を考察探求したシーンがある。僕にとっては最大の仮題だった。
 それが腑に落ちた。
 人は自分が何なのか解らない。人はさも解っているようなことを言うが、何かを被っているだけだ。もしくはこれから何かを被ろうとしている。でもその後、『被らない』をしてみることでしか自分は見えないんだと思った。

2017年3月6日月曜日

[5913] ゼロ

●ゼロ
 ハゲは髪の毛が無いので涼しいかと言うとそうではない。やはり髪の毛があった方が気温調節ができる。ハゲの僕にとっては帽子を被ることで直射日光や雨風寒さから身を守ることができる。気候によっては脱げば涼しく気分も爽快になる。頭を守る為に被り物をいつも用意しておかなければいけない。今までいろんな帽子を買ったが、ベストなのはなかった。ところが今回ベストを発見した。唯一オレしか似合わないオレだけの帽子、『オレかぶり』だった。その『オレ』は60も近い歳だったので坊さんのようにハゲだった。ところで寺の坊さんがわざわざハゲにしているのは、俗っぽい髪の毛を取り除き、本性を見せるため。つまり本性を覆っている髪の毛という邪念や思考を取り除き、無我の境地に達するという比喩だと思う。自分ではアートとは境地に達するものだと思っているので『オレかぶり』が『ハゲかぶり』でうまいこと繋がったと思う。
 でもここで気になったのは、ハゲとは髪の毛がないこと。髪には長髪があり、短いのには角刈りとか五分刈りなどがある。このようにハゲを髪の毛側からの言葉で表せば、『ゼロ分刈り』なんだ。
 『オレかぶり』とは『ハゲかぶり』で、つまり『ゼロかぶり』なんだ。


2017年3月5日日曜日

[5912] かぶり

●かぶり
『猫かぶり』の『かぶり』は昆虫の擬態のように本体を隠し厳しい社会を生きやすくする。
 人は何かしらを被って生活をしている。とにかくいろんなものを人は身に付け被る。個人をほとんど消して国を被る、会社を被る、名声を被る、経歴を被る、家族を被る。主義を被る、世間体を被る。
 これらを被ることで安心を得る。しかしその安心はその小さな集団内のものであって、集団のエッジのあの壁の向こう側には行けない。被り物を外さないでいると周囲に完全に同化し、もはや被り物が外せなくなる。自分を見失い、個ではない大衆になってしまう。被っていた何かになって、自分が誰か解らなくなる。そのうち壁の向こう側が不可解な敵になる。
 とりあえず埃と罪は被りたくない。

2017年3月4日土曜日

[5911] スーパーモデル

●スーパーモデル
 村のにひときわ背が高く無機質で独特の容姿の女子小学生がいる。他の子は普通で洟垂らしたようなほっぺた赤い田舎娘だ。一緒にくっちゃべって歩いている。背の高い子は自分が周りと違うことに少しだけ気付いているがそれほど意識することなくいつもの下校を楽しんでいる。この女の子はスパーモデルになれると見た。このまま放っといたら、年頃になったとき、田舎のバカな男子に遊ばれて、あ〜〜、もったいない。こういう原石は周りでなんとかしてあげないとほんともったいない。しかし周りはやる気がない、諦めている、無理だ、静かに生きればいいよ、なるようにしかならないよ、などのマイナス思考。今はどこでもスーパーモデルなどの情報を得ることができるから、昔程ダイヤモンドの原石が庭石になることもないだろう。
 今描いている撲の絵そのものが、そのスーパーモデルの小学生のような、つまりダイヤモンドの原石なんだと思っている。僕の絵がそのあたりのどうでもいい庭の庭石にならないように気をつけなければならない。

2017年3月3日金曜日

[5910] 絵画と観念

●『絵画』と『観念』
 アートの使者ついでに現代美術について。
 デュシャンを好きだった当時のファンが、バルテュスの絵を好んだだろうか?
 もし僕なら好まなかっただろうと思う。実際自分はファンでないからどっちも面白いと思う。
 デュシャンはレディ・メイドという既成品の便器を展覧会場に展示したことで有名だ。「ほれ、便器だ、勝手に感じ思うがいい」。当時の観客を小馬鹿にした、否、対象物を描く『絵画』というものではなく「ほれ、便器だ」という『観念』を会場に提出したのだ。頭のいいヤツは脳を降る回転してこの作品?を分析しなければならない。これによって人間の知性が向上したと思う。作る『絵画』より作らない『観念』の方がより刺激的で自由で学びが多かったからだ。さて、それ以降アートにはヤバいほど刺激的な観念なるものが必要になってきている。なぜなら『絵画』の喜びと『観念』の喜びを知ってしまった今日、僕らはそれ以下ではあんまり喜べない。例えば新しいとても美味い酒を飲んでしまったら、それ以前やそれ以下の味わいの酒では満足しなくなるようなものだ。
 ではバルテュスはどうだろう。まるで絵本になり切れない自分の嗜好の世界を絵にしたようなものだ。デュシャンの『観念』などどうでもいい時間を無視した完全なる視覚『絵画』だ。デュシャンの酒は大量生産的だが、バルテュスの酒は誰にも飲ましたくない秘密の美味い酒だ。

2017年3月2日木曜日

[5909] アートの使者

展覧会案内
石川県金沢市 大和香林坊店8F催事ホール
『日本の名匠たちの仕事展』
誕生日猫366点出展してます。
2017年3月3日〜7日までやってます。
●アートの使い
 昨日はいきなり東京から東京時代の知人だという者がやってきた。それも駅から歩いてきたらしい。記憶にない人だ。だいたい30年ほど経つし、いったいどこの誰? この馴れ馴れしさは僕を友達と思い込んでいるストーカータイプかもしれない。
 彼は現代美術のコレクターらしくアートに詳しい。絵からの流れを粘土に吹き込もうと実験していた粘土作品が朝方成功して出来ていたので見せたら、すごく絶賛。ならば今はまだ本物は見せられないので、絵の写真を見せたら、イマイチの反応。好きな作家を聞いたら、僕の好みとの違いが明確。現代美術もいろいろだ。大抵の人は自分の好みでものを言う。例えば僕の作品神様系を好きな人はいい仏道歩んでいると思う。例えば僕の作品癒し系を好きな人は心優しいと思う。例えば僕の作品の超化系を好きな人はいい感性をしていると思う。こんな感じに僕は自分の中にあるいろんな自分を発見しては作品にしているようなものだ。今回彼が絶賛した粘土作品はある意味で高級な感覚だ。でもほぼ全てを包むようなその現代アート的高級感覚も他人の思考が入るとアラユルコトの中の部分に過ぎない。僕にとっては絵は超高級なのだ。
 しかし珍しくアートの視点を持っているやつだった。彼が帰ったあと、いったい誰だったのだろう? いったい何しに来たのだろう? 彼は実在したのだろうか? と考えた。そうか! たぶんこの制作半ばの時期、いいタイミングで突然現れたのは、アートの神様が遣わした知人らしき人に化けたアートの使いの者なんだ。
 いろんな意味でかなり勉強になった。
 何をも超えて、超えて、透明な軌道を進もうと思った。

2017年3月1日水曜日

[5908] 門

●門
 ネットの映像で面白いのを発見した。門越しに犬同士が「バカ、バカ、アホ、弱虫、くるなら来いよ、かかって来いよ」と吠え合っている。この門は少しずつ開いている。もう門は半分以上開いて、開いた所から門の外に出て戦えばいいのに、開いた所には移動せず、あいも変わらず犬たちは狭くなった門越しに「なんだよ、おまえこそ来いよ。来て戦えよ。バカ、死ね、弱虫が」と吠え合っている。門が全部開いたら、犬たちはそそくさと散らばっていった。本気で戦う気はなかったようだ。門があるから粋がっていたのだ。門が自分を守ってくれているから吠え合っていたのだ。人間もそうかも。
 いや待てよ、もしかして敵にではなく門に吠えていたのかも。門という壁。
 写真は犬っぽいけど僕のイラスト『ハナタレ猫G8』の酒用の平盃。平らなお猪口ですね。熱燗で楽しめます。欲しい方は河北町の源八酒屋さんへ直接どうぞ。ちなみにG8は源八のこと。