近所の寺の坊主が買春をやった事件をネットやテレビで目にした時、自然と涙が出た。こんな奴のためになんで僕が泣くんだろうと思った。別に興味のない人だし、奥さん子供が可哀想だとも思わないし、何の感慨もないはずだ。
彼は仏道に居る身だ。あの面倒なお経をマスターせねばならぬし、人前でちゃんとしなければ葬式だってデタラメになってしまう。故人の残された家族の心のケアなどの一翼も担う大変な職業だ。
数ヶ月が経ち、その当の本人に会った。話しをしていて、まるで反省の色が見えない、呆れかえってしまった。
僕は芸術家だ。それも『猫神様』という仏像でデビューした。たぶん仏の道を歩いていると思う。僕のような芸術家は、何故か「先生」などと呼ばれ上に奉り上げられる。そう呼ばることを自分はあまり好まない。広い大地に境界ができ狭い所に押し込められるような不自由さを感じるのだ。では何故人々は、自分と他人の間に違いは必要だが、その違いの基準を優劣にして、「先生」などと呼ぶのか?
涙の理由がやっと解った。詳しいことは避けて、結果としてこれは仏に試されているのだ。広い意味では坊さんも芸術家も政治家もその他の先生も仏に試されているのだと思う。その地位や名声を与えられ、その者はその後どういう振る舞いをするのか、どういった言動をするのか、岐路に立った時にどの方向へ向かうのかを仏は観察しているのだ。(観自在)
「さてこの者は犯罪に走るのかな? 自慢してバカをさらけ出すのかな? 欲にまみれるのかな? 真理を発見するのかな? 仏を無視するのかな? それとも目の前の仏に気付くのかな? 命とお金どっちを取るのかな? 平和と戦争どっちを選ぶのかな?」