●千本だんご
一人で隣町の大石田の温泉にゆく。
帰りに千本だんご屋によって団子を買う。
ここは僕の親戚で、
去年、おばあちゃんが亡くなったのに
コロナ禍で線香をあげてなかった。
線香をあげ、
大将夫婦と久しぶりにいろんなことを語った。
帰りの田園風景が美しかった。
●千本だんご
一人で隣町の大石田の温泉にゆく。
帰りに千本だんご屋によって団子を買う。
ここは僕の親戚で、
去年、おばあちゃんが亡くなったのに
コロナ禍で線香をあげてなかった。
線香をあげ、
大将夫婦と久しぶりにいろんなことを語った。
帰りの田園風景が美しかった。
●立場
座禅と似たものでは
瞑想やマインドフルネスなどがある。
これらの違いを考察。
座禅は日本の自然の匂いがして、
瞑想はインドの大地の匂いがして、
マインドフルネスはアメリカの都市の匂いがする。
人の立場によって言い方が違う。
簡単に言って『座る』が共通項だ。
『座る』とは立つことではない。
『立場』など無いのだ。
●至福
快晴。
今頃のここの朝方は肌寒いくらい涼しい。
朝7時ぐらいになるとやや暑い陽が射す。
昔からそうなのだが、これを体に受けると至福を感じる。
子供の頃も、日本でも外国でも、都会でも。
この心地よさは何だろうと、しばし味わう。
寒さと暑さのバランスが出揃うからだろうか。
このような至高体験は誰にでもあるのだろう。
どうやっても人工的には作れないものだと思う。
酒でもセックスでもドラッグでもスポーツでも
人間のあらゆる行いでも味わえない。
それらが求めるのは快楽だからだろう。
快楽は裏に苦痛があり、
人は快楽だけを選択するので
バランスが分離する。
●誕生日
今日は僕の65歳の誕生日です。
座禅を65分やり、
絵の小片を65枚ペリペリ剥ぐ。
これまでを振り返る。
**********************
22歳、ヨーロッパの旅で
ブリューゲルの絵に出会い、絵描きを目指す。
30歳、NYで2回展示をする。
しかし自分の絵に納得が行かず
絵が描けなくなる。
35歳、平面の絵を捨てたら
立体の猫造形作家になった。
60歳、還暦で再び絵描きを目指す。
既成の技法を捨てたら
ペリペリ画法を発見してしまった。
コロナ禍になって
絵と経済の関係性を捨てたら
『わ』の図の発見に到った。
去年、情報社会を捨てたら
ドローイングの楽しさに気づいた。
ついでにオレの思考捨てたら
座禅が降ってきた。
探求は今後もまだまだ続くだろう。
これからもよろしく。
●夢を見た
昨夜は凄い雷雨だった!
遠くから屋根をビリビリ言わせ、
ゴロゴロ様が近づいてくる。
爆弾を落としながら接近している感じだった。
ちょっとした恐怖だ。
*夢を見た。
夜中僕が寝ているベッドに、
近所の80過ぎの爺さんが
雷鳴と共に迫ってくる。
おい、来ないでくれ!
爺さんが僕のベッドに入った。
寝ぼけているようだ!
おいおい、来るな!
僕は爺さんの目を覚まさせようと名前を呼んだ。
(長岡さーん! 目を覚ませ!)
あっ、声が出てない!
それに、名前が違う!
爺さんの名前が思い浮かばない!
あーーー
****
目が覚めた。
●火
毎日のように朝日と夕日を見ている。
それに焚き火だから、
起きている間は
一日中火を見ている。
焚き火は庭の穴だ。
無いのが穴だから、穴は無だ。
無は慈悲だ。
太陽も焚き火も慈悲だ。
慈火!
一日中慈悲に包まれている。
慈悲から生まれて慈悲に還るし、
生死は全て慈悲ってことだ。
慈悲があれば生死の執着を離れるのだろうと思う。
慈悲:他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと。
●献立
口を開けても歯は揃って見える。
奥歯4本とその手前の奥歯2本がないのだ。
上下が噛み合うのは
前歯と糸切り歯と残りの小さい奥歯。
これではものを上下に叩くだけで
磨り潰すことが出来ない。
だから叩いて飲み込む。
つまらーん、美味しくなーい。
焼肉なんて無理無理、噛み切れない。
さてこれからの食の献立を考えよう。
あまり噛まない食べ物になる。
ドロドロスープによく煮込んだカレー
寿司にハンバーグにウナギ
うどんにそばにラーメン
チーズにもちもちパスタなど。
飲み物はワインや日本酒、ビールにどぶ
こんなんで暮らすことにしまーす。
あらっ、何でも食えるじゃん!
●慈悲
昨日奥歯を抜いた。
これで全奥歯がなくなった。
心に穴が空いたようだ。
亡くなった猫が脳裏を過ぎる。
後悔あり、寂しくあり、しょうがなく、諦めあり。
これが現実と無慈悲に冷徹に考えることもあろう。
ここで結論づけるのは現実ではなく、現実逃避だ。
逃げても穴は塞がらない。
自分の今の食の好みに執着はないし
好みに合わせて身体を弄る気もない。
身体に合わせて考えを変える方が面白い。
何が見えるのか、座禅、穴を観想。
穴は無いのが穴で、穴は無だ。
現実(実は現実逃避)は無慈悲だから、無が慈悲だ。
奥歯は全部無い=慈悲が増えた。
抜けた感覚は素晴らしい=慈悲は素晴らしい。
髪の毛も奥歯も心も穴=慈悲丸出しオールヌード。
庭にはモグラとネズミとミミズの穴:慈悲の庭。
人は慈悲から生まれて慈悲に還る。
●救い
座禅、目の前の床の絵の具の黒い点を見つめる。
点はだんだん大きくなって点でなくなる。
点はいくら小さくしても面だ。
点というのは概念、架空であって、実際は存在しない。
社会の中での『点』とは、
自己中心や人間中心は中心がつくから『点』だね。
拝金主義や民主主義や新実存主義など
主がつくから、全て『点』だ。
『私』や『国』というのも『点』だ。
『点』は実際ない。
これもオバケだね。
逆に『点』ではない『愛』や『平和』こそ
存在しているのかもしれない。
多分、オバケからの救いとして…
●オバケ
座禅すると出てくるオバケを発見!
1:ひとつは『たりん』というオバケだ。
もっとお金、もっと楽しいこと、もっと面白いことしたい、退屈だーなど。でも今は座っているんだから、座るという目的も実際も足りている。わざわざ自分を貧しい足りない人間にする必要はないのだ。
2:次のオバケは『くそー』というオバケだ。
このオバケは誰かに対して文句言って喧嘩している。悔しいわけだ。喧嘩相手はここにいないわけだから、自分が相手の内容を想像している。喧嘩している自分も相手も自分なのだ。勝負つくわけがない。考えるだけ無駄。今は座っているんだから、そんな奴はいないのだ。
3:それから『ヤだ〜』っていうオバケだ。
これは寂しい悲しい怖い辛い、死ぬのが嫌だと憂鬱にさせる。これも今は座っていて平常心だから、どうでもいいことなのだ。
結論:とにかく今は座っているのだから、ここにこれらのオバケなどいないことを悟り、きちんと背筋を伸ばして息を整えしっかり座る。これだけでいいのだ。