●土造り
土造りは植え替えした時に
捨てたスイレンやハスを
土に埋めて腐らす。
2年後、土に還ったその土に
新しく腐葉土とぼかし、
それに今回は籾殻のくん炭を混ぜた。
混ぜ混ぜ労働で大汗かいて、大地に寝た。
太陽の光も空もいっぱいだった。
●土造り
土造りは植え替えした時に
捨てたスイレンやハスを
土に埋めて腐らす。
2年後、土に還ったその土に
新しく腐葉土とぼかし、
それに今回は籾殻のくん炭を混ぜた。
混ぜ混ぜ労働で大汗かいて、大地に寝た。
太陽の光も空もいっぱいだった。
●絵を描くⅣ
40年以上、絵を描いてきて、その間に自分ならではの技法をいくつか発見した。技法を成長させ世間に発表したが何かが違うと感じその技法を捨てた。喩えば小学から中学、高校へと学歴が積み重なるが、それは前の若い時代の身に纏わりついたものを捨ててゆくことでもある。それと似ている。最終的に「捨てる」そのものを技法にした『ペリペリ』に行き着いた。そしていい感じにムガノガが芽吹いた。
今日は土作り、桜の蕾は膨らんでいる。ペリペリは秋の落葉のようなものだろう、そして春には新しい芽が出る。
●庭
朝は冬だった。
みるみるうちに春。
さて待望の庭仕事。
焚き火スペースの周りにライトを取り付け
焚き火用にもらった古材を移動。
大量のカメムシが冬眠していた。
サンシュユの花は満開、
ハナカイドウやツタの芽も元気、
心地いいですね。
●絵を描くⅢ
新しい発想とか新しい発見とか
新しい絵とかとても楽しい。
新しいものは今までに無いものだ。
『無い』ものが新しい。
『無』が新しい。
有ではなく無が新しい。
その無もすぐに有になる。
天気のように。
今日はいきなり冬!
●巣箱
ニホンミツバチを誘うキンリョウヘンの花が咲いた。
ミツバチが来るのは大体4月末頃。
まさかこの時期にミツバチが来るとは思えない。
でもしょうがないから巣箱を準備することに。
今回はアトリエを建てたときに余ったトタン、
それで屋根を作り、見晴らしのイイ場所に設置。
●絵を描くⅡ
私は何十年もズーーーっと絵を描いてきている。途中、粘土で猫を作って生業になったが、それが自分だというわけではなく、それが目的だったと言うわけでもない。世間に染まらない絵描きが自分の底辺にズーー〜ーっと居る感じがする。この自分の中の絵描きはどこから来たのだろうと探ってみた。
子供の頃に見た絵だ。それは絵画でもマンガでもない。その影響が大だと思う。
それは4月8日、お寺の花祭りに両親と出かけた。お釈迦様の生まれた日でお寺の玄関先にお釈迦様の子供時代の銅像が『天上天下唯我独尊』のポーズをとって甘茶の中にいた。
初めて甘茶を飲んだ。砂糖が入っているわけでもないのに甘いお茶、衝撃であった。お寺の中を見学した。その時に地獄絵図を見た。甘いあとの苦い地獄、二つの衝撃だった。この絵が私の絵描き心に火をつけたのだと思う。
●絵を描く
知人が絵を描き始めた。絵を描くのはとてもいいことだ。なぜなら過去が余所事のように吹っ切れるからだ。トラウマとかあるんだったら尚のこと絵を描くべきだ。描き初めは自分の知識で描いたり上手い下手が気になったり世間的な価値に惑わされるが、それらに捉われないで余計な観念など捨てて進めば、そのうち私が絵を描くのではなく、絵が勝手に私を未知なるところへと運んで行く。こうなると頭で描いていた未来像や頭にこびりついた過去像が全て幻だとわかり消え失せ、真新しい本来の私の道を歩き始める。色や形のその複雑な混じり合いマチエールからの感覚が思考では届かない偉大な智慧であることを知る。
●春
庭で採れたフキノトウでフキ味噌を作った。
春とは冬が春になるわけではない。
カレンダーのように日々春が迫ってくるわけでもない。
植物や虫は季節の中に季節の片割れとしている。
僕らには視覚や聴覚、嗅覚、味覚、触覚など
季節そのものになれる感覚がある。
感じている私が春なのだ。
人間は季節を概念化してしまい
人間から切り離し卓上に置いてしまった。
それは春ではない。
春のコピーだ。
●答え
坐禅を勧めるのは、
いくら本を読んでもいくら勉強しても
誰かに聞いてもわからなかったことが
坐禅をしているとふと答えが降ってくるからだ。
我々は根本的に何か誤解しているのだ。
それをあの無意味に思える坐禅が指し示してくれる。
●花粉症
花粉症は部屋を掃除すればほぼ治る。
部屋のダストがなくなるからではない。
掃除は坐禅のようなもの。
坐禅は調身・調息・調心の三拍子。
掃除しているとき、
穏やかな呼吸(調息)と無思考(調心)で
内部の過剰や過大が鎮まり
そのうち身体が調い(調身)
自然に中道に収まる。
来年には大したことのないものになる。
身体は思った以上に賢く
外の環境に臨機応変に対処する。
歩いてみればわかる。
身体がニュートラルを知っている。
●ワガママ
「感情的に豊かな人」と褒める表現がある。
ところで子供とかワガママだ。
ワガママが通らないと怒る。
ワガママが通ると喜ぶ。
感情なんてワガママに支配されている。
ワガママってのは
「私のママ」のことのような。
ママに支配されて乳離れしてない。
まぁ子供ならそれでいいけど、
大人がママに支配されていては
頭がおっぱいバブバブー
●風に任せる
『自立』について考えていた。『自立』は英語でindependent、英単語を見ても解るように依存を含む文字面だ。そして風に揺れる『わ』作品を見ていて、自立とは「風に任せる」なのだと思った。
そんな時、久しぶりにサムに会った。文画集『雨にまけるわけがない』を英語に翻訳してくれたイギリス人だ。彼は英語はもちろん日本語でも詩を書いている。日本語は主語を省くしaとかtheとか余計な単語がなく、削ぎ落とされた感じが好きだという。そこで尾崎放哉の自由律詩『咳をしても一人』という詩を紹介した。ついでに自分が自由律詩の会に誘われて賞を貰った詩が『風やめなさい』だったことを話した。
ふと、面白いことに風が三つ繋がった。『風やめなさい』『風にまけるわけがない』そして『風に任せる』。初めは風に抵抗、そして風を理解、最後に風の中に溶け込んだような。そう言えば『風にまけるわけがない』をサムは否定系をつけずに Sufer the windと訳した。サム曰く、その意味は日本人には馴染みがなくあえて言うなら「風に任せなさい」だった。そして『南無阿弥陀仏』の『南無』とは「仏に救いを求め、完全に任す」ことなのだ。
ところでボブ・ディランの『風に吹かれて』はすこぶるいい歌詞だ。The answer is blowin’ in the wind. 彼は仏だね。