●ぬわずぐるみ
人は自分の背中を押してくれる言葉がないと前に進めないようだ。
予言、占星術、流行り言葉、なんとかの時代、なんとか主義、
全てさもありげな作り話だろう。
また時が経てば、あっちゃこっちゃと良さげな言葉を迷い探し始める。
作り話とは子供の安心のための大きなぬいぐるみのようなもの。
実はぬいぐるみは生きていないんだ。
ところで写真は粘土なので『ぬわずぐるみ』
ぬいぐるみなんかに絆されないで、ぬわずで進む!
●ぬわずぐるみ
人は自分の背中を押してくれる言葉がないと前に進めないようだ。
予言、占星術、流行り言葉、なんとかの時代、なんとか主義、
全てさもありげな作り話だろう。
また時が経てば、あっちゃこっちゃと良さげな言葉を迷い探し始める。
作り話とは子供の安心のための大きなぬいぐるみのようなもの。
実はぬいぐるみは生きていないんだ。
ところで写真は粘土なので『ぬわずぐるみ』
ぬいぐるみなんかに絆されないで、ぬわずで進む!
●ゾウ
どこぞのゾウは絵を描く。
それもその辺の子供より上手い。
ねぇ、なんでゾウが絵を描けるの?
SS「絵心があるからよ」
「オレが絵を描くのは?」
SS「絵心があるからでしょ」
絵心が無心で絵。
なるほど!
●ダマスクローズ
最近、なぜかゾウを描いている。
そしたらアフリカのタンザニアに住んでいるマヤちゃんが
旦那の誕生日プレゼントの猫を作ってくれとやってきた。
マヤちゃんに話を聞いたら、子供の時からゾウが好きで
ゾウに会いたいからアフリカに住んでいるとのこと。
それも小さな子供連れでだ。
子供は現地で育ち、もうスワヒリ語ができる。
妙なところでゾウが繋がった。
あと自画像や肖像画の『像』、これって人偏にゾウだし。
ゾウに呼ばれているのかも。
*ちなみにマヤ旦那の佐藤洋介さんは
あのリンク村山を立ち上げた張本人。
村山のダマスクローズ栽培産業活動もしている。
●キックバック
泥棒らが泥棒防止の組織を作ってもダメな気がするな。
組織に金かかるし集まるからまた企む。
そういや『蹴りたい背中』という芥川賞小説あったな。
キックバックってこのこと?
キックバックの奴らはスーツの背中に足跡のワッペン付ければいい。
●気分は春
いい絵ができた。下書きではイマイチだなぁと思っていたものが、とりあえずそんな思いを無視してペタペタペリペリを施し描き進んだ。壁にかけて見て、なんかいい、少し抜けたなぁと感じた。
僕というものは僕以外でできている。食べ物は僕でないし、空気は僕でない、水も僕でない。言葉も僕でないし、知識も僕でない。食べ物や空気や水や言葉や知識はこの世界だ。僕は世界でできている。金魚が金魚ではない水でできているようなものだ。水から出たら死んでしまうからね。しかし人間は固定した自分の自己中心意識でものを見ている。好き嫌い、良し悪し、好まれる好まれないなどを判断している。世界も自分も固定したものなどないのに。固定しているから動けず世界の全ては狭い遠い。
この絵は固定が融けてちょいと広がりちょいと地面に染み込んだ感じ。気分は雪が溶けて春、春っぽくない絵だけど。
●ヤバ
イヤー、ヤバかった。
坂道でひっくり返りそうになった。
焦った、焦った!(写真)
教訓:
『下り坂はオーガを上げて進み、
上り坂はオーガを下げて進み
頂上についたらオーガを上げる』
まぁ、なんでも
こうやって経験行動して
一難一難クリアーして
コツ掴んで上達する。
●ホトケ
怒りっぽい人やウツ気味の人には坐禅を勧めます。
坐禅しているときはホトケだ。
体の心臓や血液などはそれぞれの仕事をしている。
同じように体の一部である脳も
勝手に考えるという仕事を垂れ流している。
心臓や血液の仕事を放っとくように
脳の仕事も放っとくことだ。
しかし日常の癖で、脳至上主義、
ついつい考えに乗せられついて行ってしまう。
その考えは自分の僅かな知識の寄せ集めに過ぎない。
その考えで自分から外に出ることはない。
そんなもん、放っとけ=ホトケ。
●思い通り
人が怒ったり不機嫌になるのは物事が自分の思い通りにならないからだ。
ヨガ先生が年頭で「暮らしを楽しむことが『楽』なのです」と所感してた。本当その通りだ。人は『楽』は遠くにあると思い、暮らしの仕事から逃げようとしている。『楽』はどこでもないここにあると言うことに気づけない。
この間、個展した山形ゲストハウスの女将が「いつも昨日より今日が幸せなんだ」とニコニコしながら言っていた。この人の怒ったところや不機嫌な顔を見たことがない。痛かろう苦しかろうは別次元、上次元には上機嫌がいてこれら全てをこなして楽しんでいる。坐禅勧めたら、すぐ坐禅ザブトン買って坐禅するし、ヨガでは屍ポーズで爆睡、3秒で屍になる。本当幸せな人だ。彼女は彼女の人生思い通りなのだろう。
彼女は思い通りのいい見本だと思う。どこが見本かと言うと彼女はヨガ先生の「暮らしを楽しむ」を現実やっている。僕の書いた『雨にまけるわけがない』が好きで細かく読んでそれを実行している。
ところで他所の遠くの有名・金持ち・政治家・偉そうな人を思い浮かべても、いい見本はいない。彼らは騙されていることに気づいてない不幸、それに気づかないためにもっと遠くに逃げようと欲集りになってもがいている。悪い見本だね。みんなこれらの華やかな部分だけ見ているからいい見本と勘違いして真似してしまう。そして悩む、幸せが遠のくわけだ。
皆さんも楽を望むなら暮らしの一つ一つの行為を楽しむことだと思う。じっくり時間をかけてコーヒーを淹れるとか、掃除するとか、料理するとか、本当は全て楽しい行為なのだ。同じ時間空間では二つのことはできないからこそ、他所に逃げる思考は止めて、目の前の一つに集中すると、そりゃあ子供が絵を描くように楽しいに決まっている。頭ではなく身体が楽を知っている。これで思い通りよ。
●ツィゴイネルワイゼン
昔、鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』を見てから、
サラサーテのこの曲が好きで『楽譜』というペリペリ絵にした。
SNSで天才少女がバイオリンを弾いているのを観て感動。
やはり『ツィゴイネルワイゼン』はいい。
ジプシーの旋律らしい。
いい絵を描いてよかったと思う。
●アナーキーガク
穴の空いた額縁。
風穴を開けた。
(閉塞感のある組織や事態などに新風を吹き込むこと)
名付けて『アナーキーガク』
(アナーキー:無権力無支配)
(ガク:額は絵を守る、学は学ぶこと、楽は寛ぐこと)
大工が終わり、色付け。
●金魚
金魚に餌をやる。金魚は口を開けると餌が水と一緒に口に入ってくる。
うちには五匹いるが四匹が餌を食うのが下手。口を開ける位置が悪い。頭に餌がのったり、餌が吸い込まれずに前に移動したり、一回でパクッといかない。
ふと、たぶん金魚だけでなく、世の中の動物や人間、みんな食うのが下手なんだと思った。上手いのも下手の一つなのだ。それぞれ様々な己の食い方をしているのだろう。
顔がみんな違うように、それぞれ自分の自画像を描けばいい。
●雪
除雪機始動開始。
この間やってから随分経つので、ほぼ運転を忘れている。
前よりは少しは上手くなったが、まだまだだ。
やはり近所の青柳爺さんは上手い。
もはや機械が身体の一部だ。
というより人と機械と大自然とがズレてない。
あの域まで達っするのが目標だ。
1時間、5000歩。
●表裏
物事の表には必ず裏がある。表が庭での楽しい焚き火なら、裏は焚き火用の難儀な薪割りだ。人は楽しい表だけを望み、裏は人任せを考える。しかし裏があっての表なのだから、他人任せでは本物の表の良さは味わえない。それに薪割りだって、やればいい汗かいて楽しい。表は頭の望みで今ではない。裏は身体の薪割りで今現実だ。裏を返せば裏は表。これで両表両裏、本物を味わえる。
●考える足
パスカルの『人は考える葦である』ではない。
ロダンの『考える人』は姿勢が悪い。
『下手な考え休むに似たり』
ブルース・リーは『考えるな、感じろ』と。
考えとはいい悪いや好き嫌いだ。
それを超えて瞑想の弥勒菩薩は知的で美しい。
坐禅は考えなどにこだわらない。
それか『人は考える足である』がいい。
『山路を登りながらこう考えた』by夏目漱石「草枕」