●腰
昨日は伐採した木を運んだ。
かなり重いものをいくつも持ち上げた。
今日は草刈りで腰を回した。
ふとそういや前はよくぎっくり腰になっていた。
今は全くその気配さえない。
坐禅は腰がまっすぐになるし、
坐禅前の30分ほどのヨガもある。
それらのおかげだと思った。
●腰
昨日は伐採した木を運んだ。
かなり重いものをいくつも持ち上げた。
今日は草刈りで腰を回した。
ふとそういや前はよくぎっくり腰になっていた。
今は全くその気配さえない。
坐禅は腰がまっすぐになるし、
坐禅前の30分ほどのヨガもある。
それらのおかげだと思った。
●作り話
人は前しか見えない。
目が前についているから。
後ろは見えない。
振り向いたら前だからだ。
未来は見えないから後ろだ。
未来は前にあるような気がするのに‥
思考は思い違いをしているのかも。
話はここまで。
この先の話は作り話だからだ。
漫画は作り話の方向で、
未来は白馬に乗った王子様がやってくる。
絵は作り話を排除する方向で
王子に乗った白馬様がこない。
●あざとい
寒いので昨日から薪ストーブつけた。チョコが前を陣取る。
そうそう、この間新人の郵便屋さんが来た。新人といってもいいおじさんだ。見た目身長が僕より20センチぐらいデカいから2メートルは超えている。かなりの圧迫感がある。マスクを口からズラし顎につけて自己紹介をするのだが、目の前20センチぐらいのところまでどデカい顔を近づけ、ツバを飛び散らせながら喋る。なんでそんなに近づくかね。「今度アトリエを見せてくれ」とダミ声で言う。間合いが取れない奴に神聖なアトリエなど見せるわけがない。だめだ、忙しい、とにかく離れろ! と手で払う。
この社会にコロナが蔓延したのは間合いを気づかせる為だろうとふと思った。間合いには距離だけでなく精神的なものが大きい。だからイジメやパワハラなどの言葉が蔓延もした。まだまだやる方もやられる方もなかなか気づかない真綿で首を絞めるようなものまであるだろう。
世間には間合いを縮めるための接近や繋がりイベント、政治パーティや危機煽り思想、スピリチュアルや啓発、コーチングや金儲け話など『人の為と書いて偽り』の胡散臭いのがいっぱいあるから、とにかく頭や気分で納得しないように、良い話をする者はみんなあざといと思ったほうがいい(オレを含めて)。あらゆるものに間合いを取りましょう。
●涅槃
私たちは時間と空間の中にいる。広大な時空間だ。この時空間が狭くなった時に息苦しくなる。それは良し悪しに関係なく何かが近づき過ぎてしまい間合いが保たれなくなった時だ。
アトリエである家と庭は誰にも邪魔されず迷惑せず妄想せず自分のアートをやり遂げようとして創った澄浄な時空間だ。一日は早朝の坐禅で始まり、手間日間作務をし、一日を終える。一日は四季に繋がり一生に繋がる。作品を作るだけでなく、これら一連のリズムが私のアートだ。自分のアートを伝えようと必要ある人には会う。アートを伝えたら、一期一会、あとは己が己をすることだろう。だからここは人の身勝手が入る余地などない。
ところでこうやって人を遠ざけていれば寂しい空しいを感じるだろうと人は言う。だからと言って『日間』を『退屈』に置き換えて『忙しい』に変更し、寂しさを紛らわしたりはしない。寂しい空しいを一般人はマイナスイメージで捉えているのだ。そうだろうか? その寂しさ空しさこそ作り物ではない心から感じる本当の静寂だ。喩えば私の父親は7年前に亡くなり遠くに逝ってしまった。この家や庭に近づくことはもうない。会うことなど絶対無い。何かの拍子に父親を思い出して寂しさを感じることがあるが、それはとてもしみじみして遥か彼方を見るような。この感覚を持つこの空気はなんだろうと言葉を探していて、単なる物理学的広大な時空間では無機質過ぎる。その時空間には『しみじみ』が無いからだ。
ふと、あ~涅槃寂静だ。涅槃はあなたの憩いの場ではない、もちろん子供の遊び場でもない。あなたの今いるそこが涅槃、そこがここ。
●間合い
庭に来たがるアブがいる。
アブは近づきすぎて害を及ぼす。
人の血を吸う。
ハエ叩きを用意した。
問題は近づき過ぎることだ。
近づき過ぎるのは
大人だろうと子供だろうとアブだ。
特に子供などはアブアブバブバブ。
間合いを壊せば嫌いになるのは当然だ。
間合いがあれば好きも嫌いもない。
写真:間合いをとる小屋根の鳥とチョコ
●あげる
古いテーブルと椅子。
使ってくれるというので
村山市でゲストハウスを二つ運営し始めた
頑張っているヒカルくんにあげた。
ゲストハウスはKiwa(きわ)とOTONO(おとの)です。
*写真はKiwa
●シロアリ
伐採した木を運ぶ。
木の株を持ったら裏にシロアリがいっぱいいた。シロアリの場合、アリと違い女王シロアリだけでなく王シロアリもいる。こんなものうちの庭に持っていきたくない。でも王や女王から離れた諸々のシロアリたちは途方に暮れていなくなるのではなかろうか。
ふと、人間社会の国の大将がいなくなったら国民は途方に暮れるのだろうか? そんなことはないな。却って清清する国があるだろうし、生き生きする人々の方が多いような、たとえ他の国に乗っ取られても。親がなくても子は育つ。現代はどこの国のトップも王や女王シロアリではないのだろう。個人が明確になって自分が自分の王なのかも。でも自分やエゴは概念である限り妄想だ。あるとしても小さい部分だ。弱い犬ほど良く吠える。
さて坐禅は行為で事実だから全体だ。やっぱ自分が自分の王でありCEOに目覚めるには智慧の坐禅だね。
●庭テーブル
庭のテーブルとイス、これらは神奈川にいるとき買ったものだから20年ぐらい使っていると思う。物持ちがいい方なのでテーブルや椅子の木の部分が腐ったりしたら何度も大工していた。今も直せばまだまだ使えるが雨ざらしができる新しいものに買い替えた。今まで使っていたものは雨に弱いので面倒と感じていたのだ。でもこの庭からもう無くなるんだと思うと感慨深い。
●瞑想と坐禅
一般的な瞑想は心が鎮まり心地いいものだ。坐禅は一般的な瞑想に智慧の覚醒が加わる。
姿勢を見ればよくわかる。
瞑想の足は楽な格好だ。手は親指と人差し指で輪を作り、右手は右の太腿、左手は左の太腿の上に乗せている。この姿勢は二元である相対的真実を表している。相対は知識であり人間と神やアートマンとブラフマンなどに分け、それを一緒にしようと瞑想するが、一旦分かれたものは細胞分裂のように分かれ続けるので身分ができてしまう。知識も分析と言われるから分裂し増大する。「解る」ではなく「分かる」になる。増えれば増えるほど「解る」から離れる。寝ようとすればするほど眠れないようなものだ。
ところが坐禅の足は右太腿に左足を乗せ、左太腿に右足を乗せている。慈悲の形だ。この形が私を坐禅に導いた。私が発見した『わ』の図とこの形が同じだったからだ。両手は一緒になり臍下丹田で輪を作るから相対を脱する絶対的真実、不可能を可能にする智慧を表している。
形は智慧だから、坐禅を勧めているのだ。
●切る
ひとりになった人へ。
終わったのにまだ引き摺っている。
全くスッキリすればいいのに。
人は繋がりを求めるが多少無理がある。
元々繋がりなどないから自由なのだ。
言い訳並べて自由を先送りにする。
縛りや不自由に慣れすぎてしまったせいだろう。
部分は終えたが全体はまだ終わったわけではない。
切れたらまとわりついている名称全てを切る。
これが大切だ。
これが親切だ。
これでスッ切りだ。
*ペリペリには切る行為がある。
●月
風呂上がりに庭に出て白湯を飲む。
木の葉についた昼降った雨粒が
月に照らされキラキラ光る。
月明かりの木陰までできて美しい。
月の明かりは太陽の反射だが、
月は月自身でこの明かりを反射させている。
月は暗い夜を幻想的に照らす。
月は隠れた深遠なCEOだと思った。
●好き嫌い
子供好き?
子供によるよ。
若い子好き?
若い子によるよ。
年寄り嫌い?
年寄りによるよ。
政治家嫌い?
政治家によるよ。
猫好き?
猫によるよ。
人間嫌い?
人によるよ。
私のこと好き。
嫌い。
●余裕
今日は手間日間かけてヨシズや日除けを設置する。
これで真夏だって家の中はストーブ焚きたいくらい涼しいだろう。
さて人は妄想を追って日々忙しい。
余裕を得るために思い描いた効率のいい制度や物を作る。
しかし効率をよくしたつもりがかえって忙しくなって余裕がなくなる。
だから妄想というのだ。
余裕とはある意味『無駄な時間がある』ことだ。
誰もが思うように手間日間が『無駄』。
だから手間日間が余裕であって最も効率がいいのだ。
最も無駄なのが坐禅だ。
坐禅は無だ!
●キレイと死
水槽があまりにも藻で緑色になる。そこで今回の個展旅行では、藻が発生しないように風呂用の入浴剤の塩っぱくないナトリウムを水槽にちょっと入れてみた。
数日後帰宅した時、藻は発生してない。金魚も変わってない。
個展も終え帰ってきたら、ガーーン! 一匹死んでいた。他の二匹もダウン気味。すぐに全ての水を入れ替えた。外の桶はというと藻で緑、金魚は元気。外の金魚を水槽に入れて1日おいて様子を見た。元気がない。全ての金魚を外の桶に入れた。
今朝、植物のアデニウムの葉についたカイガラムシを取りながら思った。カイガラムシはいくらとってもどこかから出てくる。日当たりによるがアデニウムとカイガラムシは互いの勢いが陰陽を繰り返しているような。アデニウムとカイガラムシは動物とその毛のように二つで一つ、表裏一体なのだ。つまり金魚と藻も一体のものなのだ。
人工的「キレイなったら死ぬ」つまり「不変などない」ってことがわかった。
無常であるこの世界で生きるには手間と日間こそ要なのだ。