●クモとガ
雪です!
家の中にガがいたので、外に捨てた。
クモがいたら捨てないで植木鉢に置いとく。
自分というガは都合のいいもんだと思った。
●わじん
今日は小田原の作品が決まった。
ずっと悩んでいたが、今朝、
薄暗い中、ロッキン清浄していて
壁にある3点の絵が実に心地よく美しく感じた。
あーー、これだ!
自分を語っている感じだ。
これまでにない展示ができそうだ。
小田原は初めてのギャラリーで猫の場所ではない。
タイトルが『猫わじん』ではあるが
だからこそ『わじん』になれる。
●四法印
痔が痛くて坐れない。苦。
友達から「歩禅」を勧められた。
歩くと風景が変わるし体を動かしているので健康にはいい。
まぁそれってウォーキングだね。
坐禅は薄明かり壁に向かって死んだように静かにしている。寂静。
視覚の情報も動きもない寝もしない。無い無い尽くし。自我などない。無我。
動いているのは身体の中身の五臓六腑や脳、外の太陽や空気や川や動植物。
これらは黙っていてもいつだって勝手に動いている。無常。
●六根清浄
ゲッ! 血! 痔です。
ほぼ座り仕事だから。
それに坐禅、やめればいいのにやめられない。
なぜなら坐禅1時間は毎日生まれ変わる。
つまり死に変わる。
昨日のオレはいないわけだ。
大抵、人は昨日を引きずっている。
死に変わりたくないからだ。
生まれ変われるのに。
だから毎日心に過去の汚れがたまる。
そこで治るまでロッキンチェアーだ。
これに座布団を敷いて半跏趺坐。
怠け者の坐禅だけど、
これでロッキン清浄(六根清浄)だ。
●世間が狭い
もともと世間は広いのに…
悪いことなどしたら世間が狭くて道も歩けない。
良いことしても同じように世間を狭くする。
私は多少名が知れているから世間は狭い。
世間が喜ぶような作品作っているからなお狭い。
それに少々良い人ぶっているからかなり狭い。
SNSなどは世間が身近な分だけ偏っていて狭い。
テック領主らは当然世間が狭い。
良かれと世間を広げますます世間を狭くする。
起きて半畳寝て一畳もないと思う。
あんまり目立たないことだね。
●無心
庭で最初に咲く花、サンシュユが咲きました。
作り物はつまらない。
作り物と言っても私がやっている粘土ではない。
子供は無心で粘土をいじる、多分。
無心でないのが作り物だ。
作り物は心に分断のこっちとあっちや
なになにだからという言い訳が紛れ込む。
金のためとか褒められたいためとかはあっちだ。
なになに主義、なになに党だからとかは言い訳だ。
そういう余計なものを心にくっつけている。
汚れなどないのが心なのに。
だから作り物だ。
空も花もチョコも無心だ。
●哲学ではなく
ジョセフ・コスースという作家の作品を目にした。1965年作の『One and three Chairs』で「椅子・椅子の写真・椅子の定義文章」で一つの作品だ。なんと! 私の『自画像』という椅子のある作品と驚くほど似ている。同じ感性を持った人を発見したような気持ちだ(ネットで見てね)。彼の他の作品ではネオン管の文字作品、緑色のネオン管で『FIVE WORDS IN GREEN NEON』とかがある。実に面白い。彼の作品は物と物の名称がくっ付いて読んでそのままって感じだ。しかし哲学的なので主観と客観に分かれていて主客はくっ付いていない。だから頭でっかち作品、つまりコンセプチャルアートだ。
欧米のアートは作るのは職人で作らず頭で考えるのがアーティストという驕慢な差別がある。若い作家志望が作らないためのネタ探しに情報を漁るようになる。目的達成思考になって金稼げば偉いみたいな無知な脳みそになってしまうのが問題だ。確かに作らないことは美だ。作り物の偽物にはうんざりするからだ。しかし『作らない』ということを捉え違いしている。作らないとは作らないも作らないことだ。私の作品は主観を剥ぎ取り『無我』を表現している。自分のいつも座っている椅子を描いて自分が居ないのにタイトルが『自画像』だもの。このあと坐禅に行き着くから、驕慢な哲学ではなく主客などない坐禅に導かれていたのかもしれない。ほごよ!
●予言
未来はわからない。
個人だろうと世界だろうと。
今回の二人展『猫わじん犬やすし』など
全く思ってなかったことだ。
だからワクワク楽しい。
未来はあんまり予想や予言などしないこと。
それに無闇矢鱈に予想や予言を信じないこと。
本当の楽しみが消えて未来がつまらなくなる。
『楽しみ』というやつが予言を外す。
●仏
招き猫は「福を招く」と言われるが、ほとんどの人は自分中心に考える。自分の福、家族の福、仲間の福と大勢に広がっても中心には自分がいる。私は福という利益を欲しがっているということだ。つまり我欲ですね。
私は「猫は私たちを福である仏の家に招いている」と理解した。
そこで仏を考察。仏とはどこかの誰かではなく「目覚める」ことだ。我欲から目覚めることで福になるということだ。無我ですね。このような教えが仏教だ。他の宗教では神様という概念がある。一神教なので一元だが神様が上で人間が下、二元論だ。なんでも上下をつけて差別し争う。もう悲しくて祈りたくなるので祈りの宗教だ。インドは多神教で神と人間が一体化する梵我一如という概念がある。二元を越えようとしている宗教だ。しかしこれも梵と我があるから上下があり二元論だ。だからカースト制度がある。身分からの自由を求めて踊りたくなるけど瞑想の宗教だ。
このインドに釈迦が現れ仏になった。つまり目覚めた。ついに二元を超え差別分別が消えた。
●菌
「きゅうりがとっても美味しいの!」と菌ちゃん農法の畑づくりしているあずささん。そんな美味いきゅうりが食べたい。円形畑の一部を菌ちゃん畑にすることにした。掘って薪割りで出た屑を並べて土を被せ畝を45センチに盛り上げる。あ”ーー、ドッと疲れた。
●願わくば
人は苦しいからお金があって健康で心配なく長生きでき幸せになりたいと思う。しかしそう簡単にうまくゆかない。実は話は逆転していて『幸せになりたいから苦しい』のだ。そこで幸せなんかどうでもよくなれば苦しくないわけだ。幸と不幸を頭に描いて差別して幸せ側に軍配をあげるから問題になる。表には裏がある。しかし表から裏に回れば裏が表で表裏は無くなる。つまり幸と不幸は無くなる。幸せは金に纏わるから表の裕福ばかり願って、挙げ句の果てにネットで詐欺られる。そこで『表から裏に回る』ってのが大事なんだ。詐欺側に回るんじゃないよ。それはただの裏で気持ちは表だ。逆転の発想が二回必要だ。まずは『幸せになりたいから苦しい』という気づき、それと『表から裏に回る』という行為だ。私にとっての雪掻き行為だね。これで幸せなんかどうでもよくなって、ついでに裏にあった苦しみもなくなる。
そういや「我に七難八苦を与えたまえ」と言った侍さんがいたけど、調べたら「願わくば我に七難八苦…」だった。「願わくば」って、スゴくねぇ!
●今
よく今が大事だっていうけど、
今と思った瞬間に過去だから今は掴めない。
未来は掴んでないから当然今ではない。
過去も未来も思考することはできるが
それらは所詮作り話だ。
思考には今が掴めない。
今とは過去でもなく未来でもない。
今とは我執なく何か行為している時だけにある。
無心に雪掻きしている時とかだ。
もう今季は終わった。
●仕事
私の仕事は粘土だけでなく絵や日記や庭いじりなど
やることなすこと全部仕事だと思っている。
一般的に仕事は金稼ぎのことだが、それだとそれを優遇してしまう。
自分のあらゆる時間を分断して差別したりはしたくない。
自分の時間の中を分断差別すれば世間をも差別するようになる。
今日はいい天気だ。
春に向けてベンチを戻し、
テーブルや椅子、デッキチェアなど運んだ。
池にメダカが10匹いた!
去年、全部掬ったと思っていたのに。
とりあえず気分爽快。