●腑に落ちた
『猫かぶり』の僕は猫の神仏を作り、これ以上ない猫を被った。その作品をもって全国で猫のお祭りをやることで、大々的な猫を被った。猫の家を設計し建て住んで、これ以上ない大きな立体作品の猫を被った。もはや完全に猫かぶったわけだ。
さて今日まで二十年以上もの間、『猫かぶり』をやってきた。しかし自分の中にずっと違和感があった。そこにひょいと現れた作品が『オレかぶり』だった。「やった!」というわけわからん感動があった。この感動は何だろう? これは一時的なものではない。そこにうまいこと個展の話がやって来た。立体や平面で『オレかぶり』を数点作ってみた。
そして気付いた。
『猫かぶり』とは「本性を現さず、大人しそうに見せること」
『オレかぶり』とは、その「本性を現すこと」
まあこれが真っ当な考えだ。
でも違った。
『オレかぶり』とは『猫かぶり』が『猫をかぶらない』ことなのだ。
昨日の『オレかぶり』=『ゼロかぶり』から『オレ』=『ゼロ』だ。
つまり『オレ』なんていないのだ。
自分の小説『自由自在堂』の中に「『作る』『作らない』、『ある』『ない』、『我』『無我』‥‥」を考察探求したシーンがある。僕にとっては最大の仮題だった。
それが腑に落ちた。
人は自分が何なのか解らない。人はさも解っているようなことを言うが、何かを被っているだけだ。もしくはこれから何かを被ろうとしている。でもその後、『被らない』をしてみることでしか自分は見えないんだと思った。