●巣箱
2019年に薪棚に蜂の巣を発見して以来(写真)
巣箱を作っては設置している。
昔作った巣箱がもう一個ある。
板が薄くイマイチだったので改良して屋根をつけた。
来たらラッキーということで
巣箱作りや設置の風景を楽しんでいる感じだ。
●巣箱
2019年に薪棚に蜂の巣を発見して以来(写真)
巣箱を作っては設置している。
昔作った巣箱がもう一個ある。
板が薄くイマイチだったので改良して屋根をつけた。
来たらラッキーということで
巣箱作りや設置の風景を楽しんでいる感じだ。
●調心
人は集団化するとそこにグループ根性やグループボケがくっついてくる。政治で言うところのいつまでも道端や田圃にあるあんなポスターはみっともないし、選挙カーはうざいし、勝ったらダルマに目を入れるなどダルマを知らない無知がやることだ。どれもこれも美的センスに欠ける。こういうことをやるのがグループ根性で、それに気づかない無知がグループボケだ。これらは集団の考えを自分の考えだと思い込んでしまっているため一人じゃ恥ずかしくてできないことでも平気でやれる。つまりもはや集団妄想の虜になっているのだ。本来の自分を見失っているということだ。家族で言えば子供が間違った親の考えまで真に受けてしまうようなもの。
人には自分を守ろうとする保守的思考がある。保守は保守だから集まると先程の集団妄想を頑固に保守してしまう。保守だから自分を変えようとせず変化に抵抗し保守する。保守したいが故に他を理解しない。保守的思考が他への差別をする。
また保守なので閉じていて解放や自由が保守管理的になる。集団妄想は個人の自由な行いを限定し、個人の思わぬ未知への可能性を失わせてしまう。この集団妄想が敵集団を妄想し争いに向かう。これはあらゆる個人にとって可哀想なことだ。
そんな危うさや窮屈さを感じると人はアンチ思考が出てくる。いわゆる閉じる方向から周囲や環境へ開く意識だ。保守とアンチは左右の目のようなものなのだろう。両方がちゃんと機能すべきだ。両方がうまく運んでいれば中心の軸はブレない。左右の目と同様、ブレなければ物事を立体的に観ることができる。これで集団妄想から本来の自分に目覚める可能性が出てくる。
ところで保守とアンチは反対だ。実は保守とアンチは守るために囲おうとする思考と個人の自律を守る思考、どちらも自分の生命を守っているのだ。考えを守るのではなく生命を守っているのだ。人間の思考は左右でも表裏でも陰陽でも片側に傾き対で見ることができない。
そこで左右に新しい言語を当てて考察すればいいと思った。保守が呼吸の『吸う』、アンチが『吐く』にすれば片方だけでは考えられまい。生き物は呼吸することで本体を守っている。呼吸を基本に考え、対になっている『吸う』と『吐く』を見直せば、人間の社会ではなく精神が少なからず進歩するように思う。
呼吸、すなわち坐禅だ。妄想に囚われるのは屁理屈を信じるからだ。頭に操られないためには頭が中心ではなく、考察・行動する時には頭に一旦引っ込んでもらうことだ。つまり坐禅の身体の軸が整う『調身』、呼吸が整う『調息』、これで頭に操られない『調心』になる。車を運転するのに頭で次ブレーキ、次アクセルとは考えないだろう。頭が運転するのではない、調身・調息・調心が運転しているのだ。
●ミツバチ
ミツバチの巣箱を設置した。知人から「巣箱の出入り口の前は開かれていた方がいい」と聞いたので、前方が開けた見晴らしのいいクヌギの下にした。
山形にはミツバチだけでなくアシナガバチも飼っている養蜂家がいる。彼は言っていた。
「アシナガバチは温厚で畑のイモ虫を食べてくれる。大人やテレビが必要以上に恐怖を煽るから誤解する。生態を知らないから怖がるのです」
人間同士の差別もそうだなぁと思う。他の人々の生態を知らないから怖がり差別する。誰もが自分の位置から自分に都合の良い情報を信じる。だから自分が差別しているとは一向に気づかず、他がこちらを差別していると思い込む。
●果樹
果樹:空っぽ農園編
木々は自分と一緒に成長してゆく。毎年の成長過程を眺めていられるからペットみたいなものだ。しかし猫と違って自分より長生きするだろう。木々は成長しながらどんどん逞しくなる。反対に人や猫や家はだんだん朽ちてゆく。木々はそんな僕らを優しく見守ってくれるような気がする。偉大なものに包まれている感じだ。だから庭を作り木々を植えたのだと思った。
さて、庭作りに興味を持った話をしてきたのは、自分は木々を植えることが好きだと言うことに気づいたからだ。だから空っぽ農園の半分には果樹を植えようと思う。いろんな果樹の実や花や枝振りを楽しめるだろう。もう春だから植え付けは来年になるけどね。
写真:一番高い木がクヌギ。新緑が出てきたばっかり。この木は明治神宮に生えていたクヌギの子。大工の高木さんからもらって植えた。数十センチの小さいものだったがこんなに立派になった。神宮に守られているかも。
●家庭
家と庭:山形編
神奈川では作品を保管する倉庫が必要になった。どこかに倉庫借りるくらいなら、安い田舎で大きな庭を作りたいと思い、故郷の山形に引っ越した。
山形の土地700坪、ほぼ庭だ。神奈川では木をいっぱい植え、木の性質を少し学んだ。ここでは果樹はやめて空間をとって花ものの木を50ほど植えた。10年過ぎ木々も成長し美しくなった。
ところで『家庭』と書いてファミリーだ。ファミリーは人ではなく家と庭のことだ。最近のファミリーは家はあるが庭がない。庭への意識がない。家は六面壁に囲まれた閉じた箱だ。これではここに住む人の心も閉じる。家から会社に向かう、会社も閉じた空間だ。どこにも庭はない。国家で言うなら庭とは環境のことだろう。庭を知らないから環境破壊をしても平気なのかもしれない。
家と庭で人間中心でない非中心に意識が向く。
●ジャングル
庭に目覚めた僕:神奈川編
8年ほど住んだ千葉の家のところを道路が走ると言うので引っ越さなければならなくなった。庭に目覚めた僕は居座ればもらえる立退金など無視し、広い庭付きの家を探しさっさと引っ越した。神奈川は津久井湖の近く、土地150坪、庭は100坪はあるだろう。土地の中央にデッキを作り、池を掘った。花木や果樹、100近い種類を植えた。庭がすり鉢状なので低いデッキから見渡せば周りは木々、ジャングルだ。
●目覚め
庭に興味を持った流れ:千葉編。
30代後半、千葉に住んでいる時、朝から夜まで粘土いじりが忙しかった。ふと庭を見ると雑草だらけ。庭は12畳ほどで狭い。気分転換に草むしりを始めたら、草で覆われた2メートルほどの高さの崖があり梯子があった。上ってみたら丘があり、そこも草だらけ、草取りしたら梅の木が3本あった。ちょうど満開だった。大きな石とかあったのでテーブルと椅子にした。毎朝バスケットにパンとコーヒーを入れて、そこで朝食を摂った。心地よかった。丘の上の原っぱなので『おかっぱ』と言う看板を立てた。ある日、後ろから声が聞こえた。
「お前ら人の土地で勝手に何やってんだ!」
この時、庭作りに目覚めたのだ。
●差別
薪棚の骨格ができた。
適当にやったにしては上出来だ。
坐禅のおかげで軸がしっかりしたのかも。
ところでこれも坐禅のおかげか
人の話を聞いていると考えが傾いていることがわかる。
表裏のどちらかに強く傾いていたり、
左右のどちらかに強く傾いていたり、
上下のどちらかに強く傾いていたり、
あっちこっちのどちらかに強く傾いていたり…
強い傾きは他に対しての差別的発言になる。
差別とは、実は自分を差別している。
自分を狭い空間に閉じ込めているのだ。
人は自分への差別に気づかないから愚かなのだ。
人は自分を閉じ込めるから迷うのだ。
●耕作
空っぽ農園。とりあえずひどい土地なので最初だけでも耕やす。
若者にやってもらう。
うちの庭で出会い結婚した若夫婦。
庭の蔦のパーゴラの鉄を溶接してくれた若者。
彼が農家をやり始め10年。
溶接から何からデカイ耕運機まで乗り回す。
お願いしてやってもらった。
何かと力強い若者だ。
ありがたい、とても綺麗な風景だ。
●光と影
夜とは
陽が照ってないわけではない。
陽はいつだってある。
夜は単に影だ。
影だから実体ではない。
だから夜に実体のない夢を見る。
影は増えたり減ったりする。
二元は全て影だ。
お金も影だ。
人は光を負い、影を追い
昼も夢を見る。
影の金で影の夢を欲する。
実際はコントラストなどない。
後ろの光も前の影もない。
ただ陽と同様に
自ら光るだけだ。
●空っぽ農園
農園の名前が決まりました。
何にしようかとコーヒー飲んでいてコーヒーがなくなった時、
SS「コーヒー、もう空っぽだよ」
あっ! それだ!
これまで僕は『自由自在堂』『ペリペリ』『無我の意図』と文章を書いてきた。なんのことはない。これらは全部、金でも人でもなくホトケに引っ張られているような、ならば『空っぽ』はぴったしだ。つまり「本来無一物中無尽蔵」だ。そんな空っぽだからこそ無尽蔵の姓、そう百姓になるだろう。名前は『空っぽ農園』です。
写真:神奈川時代に庭造りで買った本。
●お花畑
庭の桜は満開です。
対立を嫌う人の事を
『お花畑』とか言うらしい。
まぁ鉄砲ごっこがあるなら
お花畑があるのは当然だ。
夜があるなら昼があるようなもの。
夜だけなら暗いし寒いし
死の匂いが充満し
疑心暗鬼に陥る。
昼は生気に満ちている。